私も、80年代の上京中にルイス・ブニュエル監督の過去作再上映辺りからカトリーヌ・ドヌーブさんを知ったのだけれど。今の若い方達には、馴染み無いかも。欧州では、名だたる監督と代表作を幾つも残されて。
過去の記事を読むと、重ねた年齢もあってか一時体調も崩されたらしいですが。80歳を超える大御所( 活躍の場や出演作品の幅から、さゆり様とはラベルもスケールも違うかな)にして、出演欲は衰えず。わざわざ、我が国の群馬県高崎市や千葉の海岸に赴かれて、日本の俳優陣と絡むらしく。監督は、前にも日本で撮った経験のあるシンガポールの方だけど、脚本には「サバカン SABAKAN」の金沢友樹さんが噛んでいるので、外から来た作り手目線による「勘違い」な描写も無いだろうと目星をつけて足を運ぶ。
結論を記すと、お話や描かれたシーンから、特に胸を打つとか気付かされたといったものも無く。フランスの至宝である大女優が、日本の居酒屋のカウンターで、徳利から注いでコップ酒を煽ったり、堺正章さんと共に神社で佇めば、千葉の寒風刺す海岸で竹野内豊さんを抱擁したりと、日本にお越し頂いた甲斐ある希少なカットが目に出来た事。そして、同じく年輪を重ねられて居りますが、風吹ジュンさんの暖かいほほ笑みを拝めたので「良し」とします。
群馬で独り暮らしをしている、堺正章さん扮する父ユウゾウの訃報を受けた、東京でアニメーション監督をしている竹野内豊さん演じる息子のハヤトは、実家に向かう。そこには、離婚して千葉で暮らす風吹ジュンさんの母親メイコにサーフボードを彼女に渡して欲しいと書かれた「遺言」らしきものが、まさに帰省した直近に地元で開かれる、カトリーヌ・ドヌーブさんによるシャンソン歌手クレアのチケットと共に残されていて。
ハヤトはコンサートに父に代わって出かけて、クレアの歌声に感銘を受ける。実家に仕舞われていた自分が幼少期に描いた父と女性二人が並んだ絵に、コンサート後彼女からサインを貰い実家に戻って、若かりし日の彼女のレコードを棚から引っ張り出し、ウイスキーを煽る。父を偲ぶのもあったのだろうけれど、仕事を含め息詰まった自身を癒すというか、逃避に浸っているかのよう。
一方のクレアも、直前に独り暮らしの慰めであった愛犬を亡くし、更にその前には独り手で育てた娘を先に亡くした心痛が癒えないまま、異国の地で「転機」と自ら言い聴かせ舞台に上がったものの心は晴れず。現地の若い女性マネーシャーを帰らせて裏通りの赤提灯の暖簾を潜り、日本酒を煽り続けていたところ、突如カウンターに突っ伏し命を落とすのだが。そんな自分を傍で第三者的に見つめるもう一人のクレア。そう、彼女は異国の地高崎市で、天に召されず「さまよえる魂」となってしまった。
当然、生きている人間には見えず、要領も得ないまま、街を俳諧しはじめると近づいて来る年老いた日本人男性が目に入る。そう、彼女のファンであったユウゾウである。彼の手引きで、実家を訪れたクレアは、ユウゾウと共に父の遺言を果たそうと、ボードを積んでメイコの居る千葉へ向かうハヤトがハンドルを握る残された廃車寸前のワゴン車で、さまよえる魂は小旅行に出かけるのだった。
画面の中には、「霊的存在」として現世に生きる人達と共に同じ場所に並び立っては居るのだけれど。ドヌーブ様はじめ彼女ら逝ってしまった方のお姿は、当然認知されず。また、さまよう「魂」たちは、思考や発声は亡くなった時の自国語で行うってはいるが、翻訳を介さずとも心で通じ合えるので、ドヌーブ様と堺正章翁のやり取りも、互いが自国語で行われるので、慣れない外国語のために互いに苦心する場面は見られず。なので、滞りなく話が転がってゆくのは良いけど、拍子抜けのキライも拭えず。
「魂」となっても、簡単に母国へ戻れず。現実には、ハヤトが独り母の元へ車を走らせているのだけれど、作品の画としては後部座席にユウゾウと共にクレアは座って。極東の地で、遺された子供が、父親の遺志を果たす様子を見守る展開となるのだが。
父の訃報が入る前に、ハヤトの背景が提示される。映像監督として華々しく賞を獲ったものの後が続かず、知る人ぞ知る存在となりつつあって。児童向けの動物擬人化作品の依頼を仕方なく引き受けているものの乗り気ではなく。ぽっかり空いた心の穴を埋めるべく、ついついウイスキーのボトルを煽ったりしている。
サーファーなんかが集まる千葉の海岸に付けば、風吹ジュン母は、再婚して でんでんとカフェを営んでいて。元々ユウゾウは、若き頃バンドのリーダーで、当時10代だったメイコをボーカルに引き込んで。それを機に結婚してハヤトが産まれたのだけど、何故か父が彼を引き取って。(デビューレコードのジャケットが出て来るのだけれど、堺さん、風吹さんの若い頃の写真を使って、ホントにあった様に小道具作られて。ドヌーブ様も、美術仕事に感心したと記事を読んだけれど。これの事かな)
それが、音楽とか全く関係ない、タダの田舎のお爺ちゃんのでんでんに愕然としたのか、メイコには既に高校生男子の孫がいて、しかも、ハヤトの過去作を知っていて。更には、熱いリスペクトまで向けられて。ショックが立て込んだのか、ハヤトは自分の荷物から洋酒のボトルを出すや、中身を全部飲み干し晩秋の海に入水自決を試みようとするのだけれど。
見る者に懇切丁寧に背景、状況を説明する必要は無いでしょうし。見る方に考える「余地」を残して、想像を働かせるべきだとは思うものの。親子の行き違いが生前あったうえでクレアは、ハヤトを見守っているにしても。当然、「魂」が生身の人間を、諭したりするのもあり得なく。そうかと言って、傍観者の立場以上に、クレアがハヤトに入れこませる「何か」も無いので、見る側の作品への距離感が縮まらない。
クレアも母国でも独り呑んでいたし。居酒屋でも、初めは徳利だったのが、カウンターの向うに居る大将に、一升瓶から直にお酒をコップへ注がせて、突っ伏す直前は瓶を独り抱え込んで。ハヤトもだけれど、酒量を増したところで「嘆き」は収まらないというのが、まず、作品から導かれる「教訓」でしょうか。
クレアの魂は、なんだかんだ、約1年間極東の地に留まって。我が国で、「魂」が返って来るお盆を迎えていた。ドヌーブ様が、川辺に佇んで流れてゆく灯籠を見つめる姿は、「構図」として良い画が撮れていました。そういえば、コンサート場面も、ステージで座ってでしたが、シッカリ歌声も聴かせて頂いて。そのお礼として彼女に異国情緒をお贈りしたカタチか。
千葉からの旅を経て、ハヤトがやり直しの「転機」を飾る事となる出来事に、都合よく高崎で、賞を獲った過去作の回顧上映に出くわして。ご丁寧にも、セル画テイストのアニメーションを用意していて(こういう、細かいところが行き届いていたりする)。それが、スクリーンに投影されるのだが。それがまた、高崎現地に昭和の良き時代の建物そのままで営業継続中の高崎電気館でのロケなのです。昔ながらの座席部分が折り畳まれる長椅子式の座席に、竹野内豊さんとドヌーブ様が並んで座って、作品のために作ったアニメーションを見つめているという。映画に纏わる「時代」を残すという意味では、絵になる被写体が重なって、「箔」が付いたのは間違いない。
拙文にお付き合い頂き、ありがとうございました。
シネマサンシャイン沼津シネマ7にて
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