所感を残すのにもたついていたら、「午前10時の映画祭」での上映期限が1週間を切ってしまった。ある映画ニュースサイトの記事で、「天国と地獄」のリメイク作品(の配信前)のPRでインタビュー取材を受けたスパイク・リー監督が、日本人の聴き手に対し逆質問を仕掛けて「出身国の若い世代が黒澤明監督作を見ないのは、何故だ」と、作り手としての嘆きを当り散らしておられていた。
これは、単に歴史的、権威的な「知識」として頭の片隅に留めておくべきからではなくて。まだ、映画が、エンタテインメントの中心として黄金期だった頃の日数と予算を贅沢につぎ込んだ第一級の娯楽作品で、「集団抗争劇」の表装、形式を打ち出した。ひとつの目標の元に何人かのエキスパートが集められて、その実行の段階で各々が持つスキルを発揮するという「図式」は、見る方にも、達成するまでの困難さや取り掛かる人達の関係性や成長、達成感とかが作品の流れとして組み込まれて観客も自ずと引き込まれる。
そうして、映画に限らず、ドラマ、小説、漫画と、国も超えて影響は伺えるのだけれど。この原点作品が与えた真の影響というのは、必要な人数が集まるまでから、目的に当たるまでの準備段階に至るまで、メイン以外の周辺の人物も巻き込んでのキャラクターの人物像に、見せる主体の「アクション」で惹き付けるための用意や仕掛けを、受け手の印象に植え付けて行くかという見せ方、語り口である。
野武士を撃退してくれる武士を雇いに宿場町に繰り出した農民たちが、志村喬さんの官兵衛を主軸に迎えて。防衛に必要な残りの人員をスカウトする際に、慕ってついて来た半人前の若造勝四郎にスカウト拠点の安宿の入り口わきに外から見えない様に立たせて、見込んで連れて来た者の危機察知力と瞬時の対応を試して、「もてる力」を計ろうと試みる。この件で、多くを説明することなく力量や性格が露わとなって。
その「武士力試し」のオチが、三船敏郎さんの菊千代さんで。繊細さなんか微塵のない豪放さと頭に血が上り易い直情的な性格と、鍛錬された剣術でなく頑丈さと腕っ節の強さが持ち味のうえに、幼い子から年寄りまで誰が見ても判り易い可笑しみをもたらしてくれて。必要な頭数を招集する物語の助走部分で、人物像を描き分けて。また、何気ない会話が後のクライマックスを経て、残った者達の徒労感を語る際にも引用されて。創作上の目配り、企みが、何気ないところで手回しされている。そして、創造される主要キャラクターも、現在に繋がるフィクション上で、意識している、してないに関わらず、現代に至るまで影響というか、「つながり」や「流れ」といった系譜的なものも過って。
以前の「午前10時の映画祭」で本作を見てから、数年経ちましたが。その間、世に出た、世界の興行収入トップ5に入る勢いで各国にて稼働中の鬼を滅ぼすアニメーションに出て来る、育ての獣のはく製を被った猪突猛進な半獣に近い隊士にも、菊千代臭が漂ってないですか。
話が横道逸れましたけど。合戦3日目の土砂降りの中、農民の部落を野武士が跨った馬が駆けて、傭兵侍たちとの死力を振り絞った決戦を撮るのに、自然の「雨降り」を何日も待つのを許された、当時としては「超厚遇」な撮影が許されていたそうですが。グリーンマットで、さも外ロケして来た感を簡単に醸せる今の撮影では味わえない贅沢な合戦でありますが。昔ならではの手間は、「大変、だったのね」の印象で流して良いですが、野武士のねぐらをあらかじめ急襲する辺りから、相手の騎馬数を官兵衛らが、手描きの作戦見取り図の脇に騎馬数分「〇」を書いていて。倒すごとにそれを消してゆくのは、作戦の進捗具合が見えて作戦完遂までこちらも前のめりにならざるを得ない。
黒澤天皇と同じく、製作会社の東宝所属だった岡本喜八監督は、国旗の下、命を落としてゆく名もなき若い兵士たちが命を落としてゆく事に、その「意義」を問うておりましたが。戦いに向けて、農民たちのこころを束ねる為として、千秋実さんの兵八が、部落で見付けて来た「のぼり」に、筆を取って即興で「家紋風」な書き込みをするのだけれど。それには、また菊千代絡みのクスグリも、お約束で入る。それを、いろいろ失うものがあって心折れそうなところで、菊千代が持ち出して来て藁葺き屋根の高いところにそれを突き刺す描写は、ヒロイックで、こっちも高まる。
他にも、部落での準備を経ての実践場面や、人物間の絡みに、デジタルで映像はクリアになっても、やっぱし部分的に判り難い言い回しは残るけれども、刺さるセリフに、所々で、可笑しみや若い衆の切ない恋とか緩急も取り入れて。黒澤監督以外に二人加わった脚本は、やっぱりよく練られている。それは、準備に時間が許された時代だからこそでもあるけれど。三人寄ったら文殊の知恵ではないが、時代の風雪をものともしない「強度」が見せ方、展開にあって。だからこそ、いろんなところで「下敷き」にされる。
そして、今も充分見応えがあるのは、アクションのカタルシスだけではなく、物語に籠められた意図や洞察にある。今回見て目に留まったのは、七人が部落に入って、周囲を見聞して戦いの立案を進める間、菊千代が農民たちから倒れた武士から密かにかすめ取った刀や鎧を、決選用にと得意げに持ち出してきたのを見て、雇われた本物の侍たちが、「武士の精神」を踏みにじったと雇い主で守るべき農民逹に怒りを向けるのですが。
「守ってやろう」と、農民を下に見くびっていたところ、庇護の対象に裏切りを覚えた訳だけれど。そもそも、農民を追い詰めているのは、自分達と「同属」であるうえに、命を奪われ傷つけられた者がそのまま黙っているというのは決め付けで、戦闘状態にあれば、残虐で裏切る事はどちらにも備わっている事を語っていて。
単に戦国時代のトワイライトに起こり得たであろう合戦のスペクタクルに終わらず、「戦いに於ける人間の本質」が作品には織り込まれて。作品発表から、時間は流れているのに、混迷に拍車がかかる現代にあって、強い訴えを今回あらためて受け止めたのでした。
スリーンで見るのが、絶対良いのですが。何とか、一度はお目にかかって貰いたい実践を果たしたく、書き留めた次第です。次の「午前10時の映画祭」があるのかは判りませんが、発表後に影響を与えて、ステディカムカメラやドローンも無かった時代なのに、震える様な移動撮影で魅せる「羅生門」をラインナップに入れて欲しい。
拙文にお付き合い頂き、ありがとうございました。
シネマサンシャインららぽーと沼津 シネマ6にて。
ログインしてコメントを確認・投稿する