まず何より、遥か昔の自国に栄えし江戸の頃の街並み、風情、情緒に目から触れられる端正な画作り。時代劇撮影の歴史、ノウハウが蓄積された京都の撮影所を拠点としたお陰で、商家が並ぶ通りや、独特な構えの吉原遊郭の囲われた別世界、民草が狭い軒を隣り合わせて生活が匂いたって来るかの長屋のつくり。目に写るスクリーンの規格内には、その当時を切り取って来たかの「仕事」が埋めつくされていて、それだけでも元は取れました。
銀幕での展開が、まごう事なき江戸時代の出来事として受け取られるのは、夜間のシーンにもありました。長屋の狭い一室内もそうですし、両替屋の屋敷のお店の玄関先や大広間に、決闘の場となる丁場のお庭も、それぞれ部屋に置かれた蝋燭や庭の蟷螂の「灯り」だけが照らすかの闇に埋もれる寸前の可視可能範囲で捉えた撮影の貢献が、特に外せません。
昔、池袋の名画座で、公開当時に蝋燭の灯りだけで捉えた映像と伝えられていたキューブリック監督の「バリーリンドン」を見たけれど。デジタルが当たり前のZ世代には、伝わらないでしょうが、「スクリーンに雨が降る」って使い回された年季の入ったフィルム上映では、そのコマに入った縦長の傷ごと映し出されるため雨が降っているかのように銀幕に写される中、貴族のカツラを付けたライアン・オニールも闇に紛れて、ただぼやけていた印象。
それを思い返せば、デジタル撮影の感度が上がっているのは間違いありません。京都撮影所の全盛期では、あんな闇の中に灯りが灯る室内は撮れなかったんじゃないかと想像するし、技術の恩恵で江戸時代の再現度が、令和となって更に上がりました。
また、汚名を着せられ浪人として娘と長屋暮らしを強いられている柳田格之進の「人となり」を現し、立場違いの商人萬屋源兵衛が彼と知り合い感化されて行く様もそうだし、江戸の「市井の人情噺」から、汚名を着せた仇である同じ藩の柴田兵庫を討つ復讐劇へと一転して雌雄を決する対局まで「碁」が、作品にとって大切なモチーフとなって。
ストーリー展開を追って行くうちに、ルールを判らずとも場面ごとに盤上に現われる対局の様子で、それが何を語るのか伝わりますし、カメラアングルを変え、碁石を打つ指先の写り具合にも打ち手の心情も籠っていて見せる工夫も流石です。
本作は、落語の「柳田格之進」を下敷きとしております。勿論、寄席で聴く噺の良さがあって、当然それとは違ってくるのは当然とはいえ。こうして、映像で見ると、噺家さんが話術を駆使して登場人物を喋り分けるよりも、当然、世界観の広がりを享受しつつ。格之進が「濡れ衣」の真相を伝えられるまでは、ベースの落語演目で、何度も高座に掛けられて来たであろう、人情噺由来の「可笑しみ」が活かされた暖かみやユーモアにも和まされる。
本作が、封建制度があって、仇討ちが許された「いにしえの時代」の出来事として、一応の民主、自由身分、生存権を認められた現代の我々観客が、ただ、フィクションを客観視するのに終わらせなかったのは、元となった落語の演目と融合された妻の無念を晴らす、格之進と娘が覚悟を決めた「かたき討ち」の件による効果にある。
囲碁の打ち手に現われている通り、「清廉潔白」を信条として、柳田格之進は藩での務めに勤しんだのだが。宿敵である柴田から、自分の信条を貫く故の弊害、「水清ければ魚棲まず」の実例の如きに聴かされて。仇との雌雄を決する場で、自身が信じた生き方の誤りに気付かされる。そこで、残された生涯の時間を生きる決意表明が、本作のタイトルへ結実していて。
現実に目を向ければ、シガラミに縛られて、本作の柳田格之進の様に、スッパリと決断、実行するのは難しかったりするが、胸中で仰ぎ見る理想像として仇討ちの場を用いて格之進の人物像を鮮烈に描いているのだろう。そして、噺では語られる事が少ないらしい、本編の吉原の件は、格之進の決意への花向けとしても、正しい「選択」であっただろう。
この前の朝ドラ「ブギウギ」での楽天的天才作曲家とは、うって変わって。前半は寡黙な浪人の佇まいから、タイムリミットまでに仇を探し出すべく股旅姿で街道筋を行くアウトロー然とした「動」への変貌も鮮烈に、あらたな時代劇の人物像を草なぎさんが魅せてくれます。
格之進を取り巻く人達も皆遜色なかったのですが、中でも、萬屋源兵衛役の國村隼さんと、吉原の遊郭の楼主お庚役の小泉今日子さんが、それぞれ怖さと軽妙さ、そして何より「人の情」の有難さを滲ませて流石です。
拙文にお付き合い頂き、ありがとうございました。
シネプラザサントムーン 劇場��にて
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