mixiユーザー(id:20808806)

2023年05月14日13:07

346 view

「せかいのおきく」を見て。〜匂いたつ生活を重ねて、沸き立つ感情のまま明日へと繋いで今この時へと至る〜

お家の騒動だとか、史実の裏側だとかでは無く。江戸時代の庶民の生活を拾った、雑味を排除したかの白黒映像で綴られた作品です。特段、見る側を揺るがす要素は皆無なのだけれど、地味に受け取られる生活描写が、興味深くまた、登場人物の心情を際立たせて、舞台の時代とは別次元の生活を送る我々観客の共感を呼ぶと同時に、名もなき人達が紡いだ「営み」が、遥か昔の江戸時代から現代まで紡がれて来た事への感慨と、これからの年月への期待みたいなもので胸がふくらむよう。

若干、大げさだったかもしれないけれど。さもない話のハズなのに、乾いたカラダに養分が沁み込んで肥沃になったというか、大らかな心持ちにして頂きました。

安政の頃の江戸、突然の土砂降りでかわやの軒先で顔を合した3人。かわやの排泄物を買付け、江戸近郊の農地へ小舟と人力で肥料として売り渡す「肥え買い」を生業とする、池松壮亮さん扮する矢亮は、一仕事終えた矢先で。黒木華さん扮するおきくは、父が上役を訴えたために、勤めを解かれてしまい、貧乏長屋で二人暮らしを強いられて。武家育ち故に、心境的に周囲と折り合いの付けないところがありながら、寺子屋での読み書きを教える事に生き甲斐を持っていた。たまたま、その帰りに彼女は、突然の雨に出くわしたところ。同じく、紙くず拾いを食いぶちにしている寛一郎さん扮する中次も、大敵の雨を避けて二人と肩を並べる。

中次は、それを機に矢亮と共に「肥え買い」の仕事を始める。おきくは、過去のトガで父に向けられた凶刃の巻き添えで負った首へ斬撃から、声を失ってしまう。最下層の仕事に就いて、感謝されるよりも当たり散らされる矢亮と中次。理解できない事件で障害を負わされ絶望のどん底に落とされたおきく。身分ゆえに目指したい道を閉ざして「肥え買い」に従事する矢亮に対して中次は衝突し、その傍ら、中次は、心に深い傷を負ったおきくを力づけるうちに、互いを意識するようになる。歴史のウネリに翻弄される事無く、四季折々の生活を送る中、三人の暮らしぶりを綴ってゆく。

斬り合いも、古き良き人情劇も無く。凪の様にほぼ平穏に進んでゆくにも関わらず、惹き付けられるのは、潤沢な予算とは言えない画面作りの中、庶民の暮らしぶりを拾う描写にあります。例えばおきくと佐藤浩市さん扮する父が暮らす、貧乏長屋の生活風景。

前夜の長雨で、貧乏長屋の通路は水浸し。しかも、共用のかわやにも雨水が溜まって「汚物」も通路に流れ出す始末で。最初の東京五輪の頃も、生活排水の匂いが漂っていた様な話も聴きますが、目前に広がるのは、そんなのまだ序の口の住環境。長屋の中心に据えた井戸に、汚れて溜まった雨水を避けて、住人達と大家が、顔を突き合わせて、けんけんがくがく。これが、いわゆる井戸端会議かと目認。確かに、住む人たちが、すぐ顔合わせし易くて「風通し」が良かったのかもしれないけれど、近所の干渉が容易過ぎるのも気障りな住環境。大家に、出水で漂う「汚物」処理を住民が直訴する場だったけど、おきくの口をついて出たのは、武家の生活から、急変を強いられた事への不満で、その場に乗じて父に当たっているフシも伺えて。話の上では、大きな意味は無くても、丁寧に掬われる生活の描写のお陰で、こうしたフィクションでしかお目に掛からない時代を生きた人たちの「実感」が、すんなり入って来るのかも。

脱線ついでに。長屋の住人の一人の石橋蓮司さんが、一汁一菜の質素な夕食を終えると、食卓代りの木箱に、お茶碗類と箸をそのまま収めて座って居た脇に片す動作があって。これまで見た事なかった生活道具で、独り身で狭い居所での暮らしには理に適っており、どうでも良い発見もありました。

画質は白黒に調整されて、当時の風景の彩りをこちらの想像に委ねられておりますが。進行が「章仕立て」になっていて、章の変わり目で、画面の一部分に色が差す。それは、おきくの着物の柄だったりすることもあれば、目には留めたくない「汚物」も、一瞬その色が詳らかにされて。矢亮と中次の仕事の行きつく先が農家の畑で、それが肥料として買われて作物が育ち、人の口に入る循環の流れを担っている。現代社会も標榜しているモデルが、昔に有ったのを示すと同時に、撮影に使用する着物も、出来るなら目にしたくないアレも、美術スタッフが、廃材から、それらしく「こさえた」のだとか。

時代も、生活環境は違えど、置かれたところで若い人達が思い悩んで来て、次の世代に繋いで来た事を表すと共に、起用された演者さん達が、作品に相応しい道具や衣装、そしてスタッフ苦心の作り物の力を借りて、作品が無ければ想像の及ばなかった時代を、さもあったかのように、見る者の共感を創ってくれます。

矢亮の池松壮亮さんが、農家に売ったたい肥が、溜め壺から漏れて。あがりを必死で稼ごうと手で掻き集めて壺に戻す場面など、当然触っているのはホンモノではないけど、下層の仕事とか気にしていられないひた向きというか「無」の心境が伝わるし。だからこそ、「ここは、笑うところだぜ」と中次を、敢えて茶化したりするのもツラさから目を背けさせている様だし。「シン・仮面ライダー」とは、また違う、中次の兄貴分としての強さを見せています。

「リコリスピザ」で、P・T・アンダーソン監督が、盟友である俳優の息子を主役に起用したのと同様、阪本順治監督も主要キャストに寛一郎さんを起用して先輩方と掛け合わせて、演技の「引き出し」を広げるべく仕向けております。その中でも、見どころとなったのは、声を失ったおきくと中次が、長屋の通り道で二人とも地面に膝をつき手を握りあう格好で、互いの気持ちを確認する場面した。

片や時代背景から、「手話」のカタチも定まっておらず。片や、無学ゆえに沸き上がる気持ちが伝える言葉に変換がしたくても出来ない。黒木さんは、「奇跡の人」のヘレンケラーさながら、手を使った振りを使って受け止めるのは、胸の内が声にならない悔しさに、地面を打ち付ける中次。白黒画面で、セリフをほぼ介さない感情の発露と想いの成就が際立って見えます。間に挿入される通路端に置かれた桶の中に雪が溜まり積もってゆくカットが、時間の経過を示していて。そこには、我慢ともどかしさが伺えました。監督が設えた土俵で、その全力のぶちかましを、先輩俳優が堂々受け止めて。新米俳優が、演じる事の奥深さを正に体へと衝撃をもって実感した瞬間かと、まったくの観客の妄言かもしれないけれど、作り手側には、そんな親心もあっただろうと想像してしまう。

ここまでかなりの字数を費やしてしまった。なるべく、以下に簡潔に書き留めよう。

黒木華さんの喜怒哀楽の表現が、今更ながら達者で、タイトルロールとして、さもない昔の日常話を転がす「核」となり得ております。先に幾つか、場面を詳らかにしたから、これ以上になると、作品を目にした時の鮮度を落としてしまうから慎まねばなりません。セリフには、一切内面の説明はないけれど。気高さだとか、絶望だとか、沸き上がる悦びに、一瞬違和感に囚われる瞬間だとか、表情や全身の表現が、もうありありとしている。

阪本順治さんの過去作「一度も撃ってません」でも、ちよっとだけ顔を合わせていましたが、佐藤浩市さんと御子息の寛一郎さんとの、本作では、長くなった共演の場面。何て事のない世間話のやり取りに、年長者ならではの含蓄が込められていて、後の展開に大きな意味も添えておりました。説法下手のお坊さんとして、演者として久々に復帰された真木蔵人さんも、その可笑しみと共に、意識しているか定かではないけれど、おきくや中次を導く存在として、印象を残されております。

本作が、監督作30本目となる阪本順治さんです、この御時世でありながら、コンスタントにキャリアを重ねられて、素晴らしい実績です。過去作において、見るべき作品を結構落としていて、大きな事は語る資格は、無かったりしますが。この「せかいのおきく」は、従来の時代劇と違って、ユーモアと情感に溢れて、敷居が低く取っ付き易いので、多くの方の眼に触れられると、本作を愛する者としては幸い。

拙文にお付き合い頂き、ありがとうございました。
シネプラザサントムーン 劇場��にて

7 8

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2023年05月>
日 月 火 水 木 金 土
 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
28293031