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2023年04月09日23:35

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「フェイブルマンズ」を見て。〜ファインダー越しでは気づかなかった身近な存在の「別の顔」〜

映画市場のサイクルの短さから、賞レース報道での「浸透」まかせで、邦題タイトルからして作品内容の想像が、付き難くなってはいないか。

劇中、主人公がアメリカ西海岸へ引っ越しをした転校先の高校で、タイトルとなっている姓名が、典型的ユダヤ人種を表している事で中傷されるのだが。作品を見ないと、「意味合い」が判らないというのは、劇場公開での1次利用から、その先の家庭向け視聴等の2次利用まで期間が詰まっているうえに、同様に別の作品のリリースもあって拘ってられない事情故と想像はする。でも、劇場で見向きされなければ、後々も陽の目を見る事は無い。

いきなり脇に逸れる私見で、字数を費やしてすみません。それもこれも、もう少し多くの方の眼に触れられるべきじゃないかと、上映が終わって灯りが戻った場内の席の空き具合を見て過ったもので。

いかにして映画監督を志したかの原点回帰を切り口に見せる作品が幾つか現れる中、デビュー以来、長きに渡って第一線に居座り、送り出す作品が途切れ無い巨匠スピルバーグ監督の自叙伝的作品である。

1950年代、両親に宥めつかめつつ連れられて映画館で見た「史上最大のショー」で描かれた汽車と自動車の衝突場面に、幼少期の本作主人公サミーは、囚われる。そこで一足飛びに映画監督の役割を意識するのでは無く。記憶の再現装置として、母から、無断で貸された父の8mカメラを入口に、映像をホンモノらしく撮って見る人達に伝えるかに、サミーは執着して行く。

「1941」や「未知との遭遇 特別編」と言った、スピルバーグさんの駆け出し時代から映画に馴染んで行った者としては、先の衝突事故の再現に始まり、ジュニアスクール時代の自主制作に於ける、如何にして驚きや興奮を届けるべく試行錯誤して映像演出家の下地が出来上がってゆく様が、微笑ましく描かれるも異彩の片りんも垣間見えて。監督が世に出た作品が惹きつけるに至った背景が、あらためて納得出来ました。

そして、自分の鑑賞歴と並行して、商業映画界で比類なきキャリアを築かれた巨匠も、良くも悪くも「童心的」、イノセンスと云われ、そのうえ、ヒロインがイマイチなのも、色恋沙汰に疎いせいとも陰で云われ。世に頭角を現した頃を偲ぶと、その間の風雪やら重ねた「年輪」が滲み出たのか、本作では表現者としての「成熟」がヒシヒシと伝わって、その変貌が我が事のように、誇らしげにうつる。

それは、ミシェル・ウィリアムズさん演ずる母ミッツイの存在にある。作品冒頭は、昔ながらの良き家族風景として食卓場面が出てくるも、後で露見する幾つかの要因から、ずれた笑いを誘うコメディ調だったりしたのが、後半、フェイブルマンズ一家を大きな岐路に立たせる事態となるのだけど。サミーの幼少期、ちゃっかり一家の食卓に家族の一員の如く普通に座っているセス・ローゲンさん扮するベニーおじさん。彼は、ポール・ダノさん扮する父バートの同僚で、たまたま団らんの場に出くわしているのかと思いきや、ミッツイの心通じあえる相手であるベニーを彼女の傍に居させることを、バートが「許容」しているのだ。

レイティング上は、誰もが見られるので、ベニーとミッツイは精神的な繋がり以外に、確信に踏み入る描写は無いし。巨匠初期の頃だったら、バートのように、愛するものを他人に譲るなんて有り得ない。この女一人、男二人にあっては、「未知との遭遇」に演者として出演したトリュフォー監督の「隣の女」的であり、ル・コント監督の「仕立て屋の恋」的要素も連想して。家族とベニーおじさんとで出掛けたキャンプで、焚火の向こう側、薄手のワンピース姿で、思うままにソロダンスを見せる。目に見えて妖艶という訳では無いのだが、題材に合わせた描き方があるのは当然としても、見てきた過去の作品群で、奔放な女性像にお目に掛かった記憶が無い。

半生にあった事実なら巨匠は、これまでその要素を封印してきた事になるが。本作のサミー君は、家族の記録係を任されているところ、母を喜ばせるために、先のダンスをメインにした映像の編集を父から急かされるのだが。その頃は、8mフィルム用の編集機なんぞ与えられていたので、作業に打ち込んでいると、感受性も備わって来たのもあって、映像から母とベニーおじさんの間の、単なる「知り合い」を超えた「親密」さに、編集械を使ったコマ送りをしている内に見出してしまう。

本作は、単に名を成した有名監督が、自分が如何にして才能を開花させたかをひけらかす為に創ったのではない。映像作成に纏わる「特性」を通じて、少年期から青年期へのアイデンティティの確立を、先にツラツラ書いた多彩な要素でもって、やや長尺なるも、全く飽かずにたくみな手腕でもって見せる。よくある成長記なのだが、劇中で紹介される、主人公が手掛ける自主製作作品を介して「映像」の意味合いと共に、味わい深く語られる。

冒頭の方に書いた、高校でのイジメの結末なのだが。如何にもアメリカンハイスクールの階級上位に君臨するフットボールの主将野郎を、「なまけものの日」だとか、浜辺で日がな一日リクリエーションに徹する一日の記録映像を、これまたアメリカンなイベントのプロムで全校に見せるために、サミーが編集するのだが。

他人種への偏見持ちで、浮気者でもある主将野郎を、非の打ち所の無い完璧な学園ヒーローとして、映像の中で仕立て上げる。弁も立たず腕っぷしも弱いサミーなりの「復讐」でもあるのだけど。自身に関して後ろめたさを持ち合わせている主将君にしてみると、記録映像で、完全な人格者として全校生徒にイメージを植え付けられた事に対してサミーに抗議する件も、映画が、人々に「映し出された」そのもので印象が持たれて、目には映らないことには決して意識なんかせずに信じ込んでしまう映像の特性に、青春の一コマが絡んでいて。この辺り、巨匠、さすがです。

これまでフィルモグラフィでは見慣れない、愛情関係の要素を新味に、思春期と揺れとか、進むべき道への決断を、時に可笑しみ味も交えて見せて。浮浪者の風体をしたサミーの叔父さんの突然の来訪の件も、ヘンに不吉な登場の仕方から、ご自身はサーカス団の雑用係なのに、サミーの進みたい監督と同列に、芸術家を目指す際の家族との軋轢を偉そうに語るのも、良い「息抜き」だったけど。

更に良かったのは、巨匠とは全く違う作風のデビッド・リンチ監督が演者として、ジョン・フォード監督に扮して登場するのです。トレードマークのアイパッチを装着したお顔に、更に「男の勲章」を沢山施したメークで、オフィスに現れたときは、憧れの方に会うサミーの緊張感を、一気に吹っ飛ばし存分に起爆力を発揮し、意義あるカメオ出演でした。サミーに映画を撮る「極意」を授けるのだが、それまでの家族や同級生との関係で、抱え込んだ迷いも消し去り、ただひたすら観客に見せる事へと邁進させる指針として、将来へ光を照らして清々しい一言でした。

拙文にお付きあい頂き、ありがとうございました。
シネプラザサントムーン 劇場��にて

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