独裁維持のための報道規制で、将軍サマに都合の良い事しか流れない北の国事情もあって、興味に駆り立てられながら、「真実を知る覚悟」もハラに据えて、臨んだのですが。
映像で示される、絶対に許されない強制収容所の実体から、如何に環境が、人を恐ろしく変貌させるのか見せつけられる以上に、生き方とか自己に「心柱」を据え、周囲と折り合い他者を許容する事で、人は、恐怖を与えるのではなく、何者にも縛られない至高で自由な存在になるものだと、よもや、啓示に近い感銘に撃たれて席を立とうとは、見る前には1ミリも想定せず。
映画ニュースサイトと、地元劇場の上映予定を確認していなかったら、この衝撃とは無縁でした。監督された清水ハン栄治さんも、まったく存じ上げておらず。人権運動団体を通じて、脱北者や看守らから、これまで目の当たりにする事が無かった強制収容所で、何が起こっているのかを取材し映像化するまで、実に10年を費やしたとか。
そう聴くと、専制政治がもたらす弾圧から、人権が蔑ろにされる惨い描写の連続で、悪政の告発が心的外傷に繋がりかねないキワモノ映像に乗せて展開されるのが、容易に想像出来たりする。作品化への出資者を探すのに、相当難航したのもあって年月が掛かったとか。今も過酷な拘束を強いられている方達の「一助」に本作がなる事が、清水監督の本願ではあるのですが、その為にも1本の商業映画として、障害無く見てもらえる様にと、創意が尽くされているのです。
1950年代の在日朝鮮人の帰還事業で平壌に移住した両親の元、妹のミヒと共にヨハン少年は穏やかに暮らしていた。ある日政治的容疑を掛けられて、父が失踪した晩に、ヨハンは、寝間着姿のまま、支度させられた最低限の手荷物だけで、母妹共々同じ目に遭った人達と共にトラックに乗せられて、翌朝着いた平壌の整った街並みとうって変わった、荒地にそびえ立つ強制収容所の城壁の中に幽閉されたのだった。
快適な団地から、地べたに直に建てられた無機質にコンクリが塗布された壁材で仕切られた掘立小屋に、怖い大人達によって訳も分からず追いやられて。本来は、時間を掛けて、自ら「社会」との係わりを学んでいく筈のヨハン少年に、突き付けられる「現実」は、順応の猶予など許さない。体制に相応しい臣民への教育名目の搾取で、満足な食事や医療も与えられず、枯れた大地に関らず収容者には成果のノルマが課せられ、心身共に追い込められる。国家の仕組みの縮図の如く、施設の中は管理者や、彼らにおもねり同じ立場ながら弱い者を牛耳る収容者らが、生存権を脅かして恐怖や相互不信を植え付け、収容所内を統制している。
この国家ぐるみの人道外れた愚行を、文字に起こすのだけでも怒りと辛さが呼び起こされるうえに、本作を未見の読み手を引かせそうだけれど。ダイレクトな実写再現を捨てて、作品に接して貰うのに3Dキャラクターによるアニメーションで映像化している。しかも、トレンドの実物のヒトに寄せた再現度高いものではなく、皮膚代わりに紙を貼り付けたハリボテを連想させる1コ前のバージョンの様な人物造形。
出資が得られ難い事情で、インドネシア在中の諸外国からの下請けアニメーターが手掛けたから、表現のグレードが下がったのかと思いきや、飢えや衰弱で頬がコケた顔をリアリズムに乗っかって作り出すよりも、前時代的なキャラのデキによる、デコボコ加減の陰影が弱りかけたヒトにも見えて、事実から目を背けたくなる一歩手前で留められている。造形は、心元なさそうに見えるも、展開上重要なポイントとなる見せ場での情景描写では、表現の質の高さで一役買っています。そして、本編の展開は、全世界に向けた会見場での「語り」なので、あの高圧的なハングル原語の響きじゃなくて、総てのキャラクターが英語で喋るので、距離感とオブラートに包むように、「劇薬」のような構成事実を和らげる働きとなっています。
強制収容所の実体を「告発」するのであれば、主人公を大人にする事で、実情により切り込めたかも知れないところを、幼少期に収容されて9年間を過ごした少年の目線で語られるので、私怨が薄められて、起こった事のありのままが語られる。その中には、収容所で息を引き取る老女が、日本から拉致されたと身の上を語り、ヨハンの母が「赤とんぼ」を歌って死を悼む描写もあって心痛めてしまうけれど。
そういう知られざる事実を羅列するのではなくて、先に書いたように収容所が、なんであるかを理解できてないまま、無慈悲な場所で育たねばならなかった、少年の成長記として作品の軸が、まず通っているのだ。母妹との係わりは勿論、急に家庭や学校外の世界に頬り込まれて、悪い面が殆どで、肉親からの教えが身に染みてからは良い面も見えてくるのだけれど、周囲の人間から学び、年頃の近い男の子と友情を育む。過酷な環境に合わせて、生きるために弱い人を省みなくもなるのだけれど、それに流されず、人間としての在り方を掴んでゆく。
去年コロナ禍で劇場公開を見送られた実写版でなく、アニメ版「ムーラン」で楽曲を担当したマシュー・ワイルダー氏が、本作の趣旨に賛同してスコアを提供していて。北朝鮮の舞台に被せて違和感のないアレンジで、歌詞の体裁は将軍様を称えるような労働賛歌なのだけれど、「人の道」を見据えられたヨハンの声掛けから、やがて、収容所全体に歌声が響いて。レ・ミゼラブルにおける、「ラ・マルセイエーズ」にも匹敵するようで、見守るこちら側まで鼓舞されます。
監督が、本作の取材した相手は「脱北者」ですから、少年の成長記に加えて、如何にして強制収容所を抜けて、作品の「語り部」の位置まで漕ぎつけたかの、脱獄の経緯も、伏線回収とまではいかないけれど、出来事や、それまでの人との係わりが巧みに収斂されているうえに、見る者の思いこみもあって、思わぬ成り行きに驚かされて、敬遠される題材でありながら、誰が見ても面白い作品である。
その顛末の裏にある身を挺した行動には、人の在り方や振る舞いが、心の持ちようで、高い山の頂を舞って、未だ過酷な生活を強いられる収容者を見下ろす鳥のように、独裁者も及ばない「崇高」なものになり得るのだと、CGグラフィックによる自在で闊達な表現を借りて知らしめておりした。
陽の当たらない作品かと思うと、余計に文章が説明的に長くなってしまいました。
ここまでお付き合い頂き、ありがとうございます。
シネプラザサントムーン 劇場��にて。
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