友達の友達が一つの日記やコミュを通して知り合い、通じるものを見出して友達になったという昔がある。
理由を考えればいろいろある。
◎携帯文化が広まって、SNSがターゲットにする人の大半がケータイからのアクセスになった
◎ツイッター文化が浸透して、長い文章を書かない
◎個人が自分1人で完結するタイプが増え、個人尊重となっていく
◎個人不可侵がほぼ常識化されてくる
◎ブログが一般化してくると共有スペースで語るということがなくなる
こういった理由でしょうか。
Aさんの日記にBさんやCさんがコメントを書いても、それはAさんの所有物であるということになる。
BさんとCさんは交流しないままです。
BさんとCさんがお互いを気に掛けあっていることがあっても交流がない。
もし興味を持って声を掛けようと思っても、相手との色合い(かみ合い、利用方針のようなもの)を気に掛けてしまう。
そこで、お気に召すかどうかを考えすぎる。
なかなか友だちとしても発展しないです。
一方で、共有スペースでのコミュニケーションが消えていくので、寂しい思いを持ち続けている。
ツイッターとかで俳句やったり、読書感想を細々と自分の日記に書いたりして遺しているけど。
もう一歩踏み込んだ友だちがいないし、なかなかできない。その気があっても発展しない。
切っ掛けもないか。
確かにみんなが多種多様になってきて、ひとつのテーマを持ったコミュがあっても微妙に色合い違うと足踏みする人が多くなっています。
結局、どこかに吐き捨てるか、つぶやき捨てるしかない。
でも、やっぱし、マイペースで(この辺が我が儘だが)共有スペースが欲しいなと思っている。
…というのが、静観的な感想です。
吐き出すようにオモテに出た言葉の隙間とか裏側のあれこれをコミュではけっこう書いてきました。
しかし、それも書けないから、何かそういうところがあったら昔のように楽しく語り合えるのではないかな、と考えてみたこともありませんか。
ただ、注意しなくてはならないのは、昔に戻そうというのは不可能だということ。
みんなが変化してきたのだから、新しいモノも変化して生まれたモノでなくてはならないと思うのです。
Facebook が顔出し、本名で心から語り合うのだと息巻いてみても、実は心からは語り合えなかったという事実。
人は少し秘密があってもいいし、秘密のある人とない人が承知で交ざり合っても許されていいのかな、とも思う。
深い友だちでなければ人生相談のようなことをやってはいけないのかもしれないけど、イケナイのは無責任になるからであって、友だちもマジメにやってれば自然に顔も分かるし連絡先も知るし、悪い面も理解し合えるようになるのではないか。
というわけで
言葉の数々のなかに隠されたその裏側や隙間を語り合えて雑談もできるような架空のスペースが欲しい。
オモテでは17文字の美句を、甘いポエムを、激情の小説を書いていていいじゃないか、と考えているのです。
書ききれなかったところを説明でも吐き出しでもいいから書いてみません?
【もうひとつの呟き部屋】(コミュ案)
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