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2020年06月02日01:53

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浜寺周辺散歩(1)

シフト勤務中は週2回だけ出勤してあとは家におこもり。
出かけるわけにいかないし、こんなにずーっと家にいてたら確実に運動不足です。歩くといいよ、とか毎日散歩してる、とかいう人もいますが、ウチの周辺歩いていておもしろいような場所でもなし。

しかし、各家庭に配られている「堺市西区散策マップ」というものが家にころがっていました。そうしたら、案外見て回るものがあるかも…。
と、思ってシフト勤務の最終の自宅日に歩いて回ることにしました。どこまで行くかは行ってみて考えよう。

ということで、結局かなりの距離を歩きました。最後には浜寺公園にまで行ってしまいました。まさか歩いてそこまで行くなんて。
それはもう「散歩」の範疇を超えているやろ…。
結局旅行をしたときはいつもひたすら歩き倒しているので、それに近いかも…。いや、旅行の時はもっと歩いてる。それよりマシ。

それで、写真を撮ったのでいつも旅行写真をUPしている「旅行の口コミサイトフォートラベル」に投稿しようと思ったら、いつもの旅行のように説明文を書きたくなって、行った先のあれこれネットで調べて一生懸命書いてしまいました。
そうしたら、日記にも書きたくなったので…旅行もしていないのにミニ旅行記になりそうです。

まずはフォートラベルで写真を。
https://4travel.jp/travelogue/11625935

まず。ウチの近くには紀州街道が通っています。「紀州街道」という道標が短い間隔でやたらたくさん立っているので、意識せざるを得ません。大阪から和歌山を結ぶ街道だったそうで、この古い街道沿いの歴史散策ということにすればおもしろみもあるかなと思いました。
紀州街道に面している石津太(いわづた)神社はよく前を通っているのですが、中に入ったことがありません。子供の時は堺にいなかったので、お祭りとか地域の行事とか参加することもなかったし。
今回初めて訪れてみて、ここが延喜式に記されている由緒ある古い神社だということを知りました。それも伊弉諾と伊弉冉の間に最初に生まれたものの、不具であったために海に流されたという蛭子命(ヒルコノミコト)がここに流れ着いたという。さらに、蛭子命はのちに恵比寿と同一視され、恵比寿神として祀られているという。
さらに、神社の向かいに「五色の石」が鎮座しています。蛭子命の乗ってきた船に乗せられていたと…。よくここを通っているのに、こんなものがあったなんて気が付いてませんでした。

紀州街道沿いに南へ行くとすぐ石津川があり、太陽橋という橋が架かっています。
橋を渡ると北畠顕家の供養塔があります。誰…。
なんでも、ここは南北朝時代の激戦地だったそうで、南朝側の若き武昌北畠顕家が命を落としたと。ここが戦場だったとは驚きです。

散策マップの目的地へ行くため、紀州街道からそれて供養塔の裏の道を行きます。
まず目的地は薬師堂です。
狭い敷地にこぢんまりしたお堂が立っています。お堂は扉が閉められ、その前に鰐口がついたひもが下がっています。中に入れないタイプですね。誰もいません。しおりの類もありません。由来とかぜんぜんわからないんですけどー。散策マップには詳しい説明はありません。
帰ってネットで調べました。ここ船尾出身の僧、道範阿闍梨が薬師如来を祀るお寺を建てた。明治になって廃寺になった。しかしその後小さなお堂が建てられた。ということは無住なんでしょうかねえ。

その近くに諏訪神社遥拝所があります。小さいけど普通の神社。遥拝所って?
ネット調べによりますと。
昔、この近くに諏訪神社がありました。しかし明治になって「一村一社」の命令が出され、石津太神社と合祀することになりました。この命令で日本中の神社の統廃合が進み、神社の数が減ったそうです。…明治に廃仏毀釈でお寺をたくさん壊したことは知っていましたが、神社までつぶしていたとは。やはり国家神道は国の統率のための神道で、民の信仰のためにあるものではないんですね。
それで、諏訪神社の氏子たちは石津太神社まで行かなくてもお参りができるように遥拝所を建てた。ということです。
近年、かつての諏訪神社の後に小さな祠が建てられたらしいです。
この遥拝所でも石の柵にたくさんの人の名前が刻まれています。石材も古びてはいないので、地域の信仰がずっと生きているんですね。
でも境内には誰もいません。観光地じゃないから、わざわざ由来の説明をする必要もないんですかね。
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