mixiユーザー(id:1940449)

2019年06月01日13:59

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ユダヤ教と神道 4


まず前提として この話は
神の実在を全面的に否定することを前提としている
神という概念をそれがどういったものであれ
誰かがつくりあげた虚構であるとしている

誰がいつ どんな目的によってそれを作り上げたのか
あるいは自然発生的に誤解したものをなぜ皆が信じてしまうのか
そしてそれらの概念はどのように変化してきたのか
当然それらは 次々に生まれる新たな状況に合わせて変化し対応したもので
古代ヒンドゥーが仏教に
ユダヤ教がキリスト教 イスラム教にその一部が変遷したように
あらゆる宗教には原型と発展系がある

今 縄文時代の信仰を知る確かな術はない
ただ 土器や土偶といった際立って特殊なデザインが
日本列島の大部分を覆っていることから
その文化的なある種の共通性が存在したことが窺われる
おそらくはその宗教的感覚にも共通点はあっただろう
確実なことはなに一つ言えないが
その原型は古神道の内容に通ずるものがあるとして大きな間違いは無かろう

古神道は別名で神祇信仰であり
特に国家的な祭祀を行う以前の民間に有った今日の神道の原型であり
それをさらにプリミティブで緩やかな概念的つながりにしたものが
おそらくは縄文信仰の姿に近いと思われる

で 神道とユダヤ教だが
この一見似ても似つかぬような二つの宗教には様々な共通点がある
何も日猶同祖論的な話をする気は全くないw
ともに 農耕に乗り遅れた民族としての共通点だ
かたや遊牧民としてのアイデンティティーを守り続けた民族と
狩猟採集をメインとした半定住民族の宗教だ

ユダヤ人も縄文人も
その広大な地域に点在して住みつつも
文化慣習を共有して
緩やかな部族社会を作り上げていた
縄文人は実際そのあたりは状況証拠でしかないが
ユダヤ人に関しては自らの歴史をのちに刻んだものからおよそ推測が可能だ

この二つの民族は 周辺国家に比して
非常に緩やかな部族連合体のような様子であったとしたなら
そこに生まれた宗教的感情は
自らの居住する地域の状況に合わせた文化慣習を保持することが目的であり
国家的な統一感は必要なかったものだと言える
自らの全てを投げ打ってでも 守るべき共同体というものは
おそらく想像すらすることができなかった

そこから先はいささか異なる将来を迎えることとなったが
その時点では
強力な神を創造して集権的な国家に至らない段階で
生活習慣や祭祀儀礼を守っていく付帯物としての神で十分だったと言えよう
ここで重要なのは
神の実在を証明しなければならないような必要性に欠けた状態であるということだ
元々守り続けていた慣習がは共同体を支える上での実用的な規範であり
神がそこに役割を持っていようがいまいが
さほど重要ではなく
メインの目的としてはあくまでも文化的な基盤を通じた部族間の互恵性にある

続く
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