mixiユーザー(id:1940449)

2018年08月05日16:49

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宗教と認知科学

この辺りの話は まだまだよちよち歩きの仮説しかないような状態なので
いろんな学者がいろんなことを言っているが定まらない
だから 勝手に妄想の中で遊んでもいいだろうw

認知科学としての宗教とは
簡単に言ってしまえば脳がどのようにその反応の影響下で宗教と言われるものを生み出しているのか? ということだ
これまでの宗教学との違いをあげてみればわかりやすい

・人間はどのような目的を持って どのような社会構造の中で現在の宗教を生み出してきたのか

というのが従来のものだとすれば

・人間の脳は周辺環境を選び出し利用してきた では宗教的な感覚はどういった脳の働きから生まれ出たものなのか

ということにでもなるだろう
「既存の宗教学が何かの目的を人間が持ち続け その結果として宗教が生まれた」
というような目的論的な感覚だとすれば
宗教認知科学とでもいうような分野では
「先に脳の構造や反応系が成り立って その影響下に「偶然にも」現れてくるものが宗教だ」
という感じだ
多分そうだw

だからして 脳科学としての宗教は
どんな宗教であろうが基本的には同じであって神学論争とは全く関係がない
ブッダの教えであるとされる仏典であろうと
マホメットのコーランであろうと
旧約であろうが新訳であろうが
シャーマニズムであろうが
すべからく【同じ反応系の作用】から生じるものであって
その信仰も この意味において全く同じだと言って差し支えない

まー 言ってみれば水から取り出した酸素も酸化鉄から分離した酸素も
同じように水素と反応するといった話と同じで
そのような還元の仕方が可能だということは
もんの凄い方法論的なポイントだと思っているのだけれども
見渡すところ こういった学説はあんまり大きく評価されないのは謎だw
一つには還元主義的な発想に対する批判や「意識のハードプロブレム」といった問題が引っかかっているのかもしれない

昔からこういった還元の仕方は存在して
ニーチェあたりからフーコーや構造主義 ポスト構造主義あたりをはじめとして
歴史学や文化人類学でも同じような話が大きく動いているのに
それらの分野で脳科学的な成果が実証に利用されてもいいのにと常々思っている
まー それは脳科学自体がまだまだあやふやではっきりした結論が何も提出できないでいることに原因があるのは間違いない

それはさておいて

宗教とは と問われると
我々は複雑な教義や荘厳な建築物を思い浮かべ
定型化された哲学的な思想を想定してかかる
たとえそれが自分に理解できないものであったとしても
大枠のイメージで それが宗教であると判断することが可能だ

このイメージが曲者で
はっきりとした実体はない
実体としての宗教が特定の特徴を以てして宗教であると判断する基準は明確ではなく
そして 基準は明確ではない割に判断は明確であるw
我々は宗教に関し思った以上に無意識の基準をはっきりと持っている
言い換えれば
【我々の脳はその発生当初から宗教というものを受け入れ利用することが可能なようにできていた】
ということで
潜在的にしろ顕在的にしろその事実に変わりはなく
その認知機能がある一定の環境を選択的に利用することによって宗教は生まれたのだと言えるだろう
似たような機能は祭りを生み政治や法を生み国家を生み出したということにもつながる

はっきりと脳のどこの部位がこういった事柄に関係しているのかというような話は全く不明ではあるが
多分そのあたりは 脳の領域云々ではなく周辺環境との共同作用であることが予測されるためにほぼ永遠に実証的に確定することはないとは思うが
妥当性の強い仮説としてある程度はっきりしてくるのはそうは遠くないと思われる

まー 誤解を恐れずに言えば
あらゆる宗教は最初に出現したシャーマニズムの亜流であり
-そこから見れば-一種のカルトであると言って差し支えない
ただ 我々の脳はそれを受け入れるべくできているので
強固な理論武装や荘厳なる建造物やもはや修復不可能な歴史的経緯というものの前に
あえてそれを否定しないでそのまま受け入れている状況だろう
それは そういった環境に適合した選択を行っているということで
それ以上でも以下でもない

この辺りの話がかなり困難なのは
それを考える脳自体に宗教的な因果関係を認める傾向があるということで
なんらかの報酬系の利益がない限り
おそらくは宗教的な人々はそういった仮説を検証することさえしないことだろう

逆に 無神論的な立場からも同じことは言えて
宗教を正誤や善悪で捉えている限り
無神論対有神論も一種の宗教論争の一環であり
そこに宗教的な環境を必要とする人と必要でないとする人の対立があるだけだ
もう少し詳しく言えば
脳が宗教的な論理を発想し受け入れる機能があったとしても
それが発動するのは環境がしかるべく揃って反応するものであって
その環境にある人を環境にない人が否定しても
「環境+脳機能」が認知であるから
認知の異なる者同士の対話は成立しない
そこに生じるのは神学論争でしかない
まーいってみれば
無神論者宗教脳でもう一つの環境下の有神論宗教脳を攻撃しているわけで
あんまり有益だとは思えないw
ドーキンス先生なんかの一神教批判はこの辺りだw

この列島の住人の多くは
宗教的アパシーとでも言えるような状況に慣れ親しんでいて
おそらくその歴史は有史以前にさかのぼるだろうことから
それはこの列島の文化的特徴の一つであると言えるだろう
脳機能に他地域の住民となんら差はないので
宗教的な反応を許容する脳が利用できる環境が少なかったことが原因として予想できる
その原因とは
おそらくはシャーマニズム段階での自然環境的な安定や
容易に移動できる範囲に住む他の共同体からの攻撃といったものがが少なかった
というようなことが挙げられるだろう
複合要因なのでどれが主原因だとは言い難いが
宗教の原初的な段階で形作られてきたものは おそらく共同体的に覆しようがないまま
現在に至っていると考えた方が妥当だろう

しかし この島を一歩出ればそうも言ってられない状況なので
様々な問題を内包する宗教対立は
おそらく既存の宗教学ではなんの役にも立たないし
現実役立った試しはない

【脳は同じ】
この極めてシンプルでわかりやすい構造は
かつてより人間が追い求めてきた基点でもある
言われる通り この定義は一種の還元主義には違いないが
それを還元主義だと批判することができる根拠も
実はさっぱり不明瞭なのも現実だ
我々は 「普通の脳」というものが一体どういったものなのか何もわかってないのだw
しかし
イスラム教がキリスト教に キリスト教が仏教に 仏教がヒンズーに
人種を問わず入れ替え可能なことははっきりしている
異なるのは環境だけだ
この環境が無神論も無関心も同時に生み出す要素でもある

宗教って面白いw
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