mixiユーザー(id:1940449)

2016年12月01日14:52

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アフォーダンスという概念2

とまあ この辺りは佐々木正人先生って人がいるので
おれなんかがあやふやな説明をするよりその先生を読んだ方が早いw

以下は その理論からくる妄想だw

このアフォーダンス理論の発展はいかなるものになるか?
世界はその人の脳から周辺に溢れ出し
その関係性から精神性を形作る
一方の環境は人が存在するしないに関わらずアフォーダンスを提供し続けている
しかし 人がその精神でそのアフォーダンスを発見するまでは
何もアフォードしない
あるけどないw

話は飛ぶ
昨今 政治の場面で何かと優位性を主張する「リアリズム」について

「軍備がなければ 隣国が攻めてくる これが冷徹な国際政治だ」
みたいなw

何の備えもしていない国家に対し
隣国はその状況に侵略するアフォーダンスを感じる
といえばなんかこーもっともらしいが
「隣国」などという実体はないので
「隣国の政治主体」というのが正確だ

要するに よくテレビ番組などで主張されるような
「鍵を閉めておかないと泥棒が入る 泥棒が入ったらあなたどうやって対処するのよ できないでしょ じゃあ軍隊は持たなきゃ」
というアレだ

存在するが価値利用できないアフォーダンスと
できるアフォーダンスがある
座りたくない時の座る価値のあるアフォーダンスは
実際に座ることをアフォードしない
これは実際にはアフォーダンス理論とはすこし離れるが
まー 妄想的応用だと思ってくれればいいw

統治とは アフォーダンスの環境の一つだ
我々は統治機構の中で価値利用できる対象を探す
漬物石を探すのに 適度な大きさを探す
この場合の大きさがせいぜい300mm角くらいの石が漬物石としてアフォードされていると言える
しかし それが他人の持ち物である場合
その環境を精神から外さなければならない
法や社会が環境の要因となっている

国防とは そういう意味合いの中では
利用価値がないと思わせるためのアフォーダンス的環境だと言える
かもしれんw

何が言いたいかっちゅーと
前記の「斧」の話と同じで
自分が考えて紛争を起こしているのだという意識を当然とする考えが
逆にそれを正当化する意識を生み出し
当然 副次的に紛争をコントロールできるものだとの結論を生み出す
基本的に「俺が木を切った」という
ヒューマニズムが政治的リアリズムの根本原理だ

アフォーダンスは 利用するしないに関わらず
そこに存在し 存在し続ける
法が禁止しても 社会的なタブーがあったとしても
アフォードする候補としては存在し続ける
それは 環境であって
知覚し 刺激され 脳が反応するといった従来の知覚認知論とは異なる概念だ
要は
「我々は考えていない」ということでもあるw

なぜ紛争がなくならないのかという問題について
こういった 新しい認知論から考え直し捉え直すのは
今後の政治学一般において重要なことだろう

どうして殺人まで犯して
国家と国家 あるいは宗教的つながりを持った共同体が戦うのか?
「俺がやるから」では説明しきれない 近代の転換点がそこにあるように思える

多分 その手の思考はもう既にどこかで進んでいるんだろうけれどもw
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