mixiユーザー(id:2230131)

2009年08月31日01:20

44 view

Strangeways, Here We Come/The Smiths

久しぶりにスミスを聴きながら、ふとこんなことを思う。
ジョニー・マーほど優しい音を奏でられるギタリストは、そうはいないんじゃないか。

個性的なプレイヤーがひしめき合う当時のポスト・パンク期において、ジョニー・マーは相応なテクニックを有しつつも、決してそれをひけらかすような独善的なプレイはしなかった。ソロ・ギターというロック的な文化を忌み嫌い、楽曲の世界観にそっと花を添えるように後方支援に徹することを良しとする――実に優しく、献身的なプレイを持ち味にしたギタリストだ。(ところで日本には案外そういうタイプが多いかもしれない)
アプローチとしては地味そのものだが、マーが持ちよる色とりどりの“花”をもってすれば、ジメジメと暗いモリッシーの歌にもたちまちカラフルな彩りを加えることができた。言葉を換えれば、マーのやっていたことは「普遍性を持たせる」ということだったんだと思う。

ザ・スミス通算4枚目にあたる『ストレンジウェイズ・ヒア・ウィ・カム』は、そんなマーさんが大活躍したアルバムだ。
とは言え、前作『クイーン・イズ・デッド』で最高潮に達していたギター・アンサンブルは最小限にとどめられ、ここでのマーはギターに限らずあらゆる楽器を駆使してトータルな目線で全体をプロデュースする役割に変わってきているようだ。
しかしながらこのアルバムは、マーがプロダクションに凝り過ぎたきらいがあるとされ、世間の評価はあまりよろしくないようだ(本人たちは気に入ってるらしい)。そういう風評を耳にしてたんで、今までなんとなく手に取ることをためらっていたんだけど、いざ聴いてみるとこれがそんなに悪くはない。それどころか、スミスの中ではかなりお気に入りの作品になってしまった。(少なくとも『ミート・イズ・マーダー』よりは好きだ)
おそらく大方がオーヴァープロデュースだと感じるゆえんは、ホーンを導入して華やかに仕立てた“アイ・スターティッド・サムシング”や、思い切ったブルーグラス調の“デス・アット・ワンズ・エルボウ”、やたらとアウトロのオーケストレーションを引っ張る“ディス・オブ・ア・ディスコ・ダンサー”、小手先の感傷に浸りすぎな“サムバディ・ラヴド・ミー”あたりを根拠にしているかと思われる(けっこうあるな)。たしかにはじめに聴いた時は過剰な作りこみがいささか鼻についたが、僕にはまだ許容範囲というか。そもそもスミス・サウンドのキモって、前記したように、モリッシーのミクロな世界観にどれだけ普遍性を持たせられるか、にあったはず。マーのバッキングとタイトなリズム隊が絡む、緊密なバンド・アンサンブルもまた捨てがたいスミスの魅力の一つだが、それよりも楽曲の世界観を外側に向けて大きく拡げることを選択した本作を、僕は方向性として断固支持したい。うん、曲も悪いくないしね。
ただし、たしかにここでのモリッシーの歌唱はどこか生彩さを欠いていて、終始うつむき加減なのが気になる(もとからうつむきがちな暗い声だけど)。この時期の2人の関係がうまくいってなかったことも想像できてしまう。

根っからの文学少年だったモリッシーと、根っからの音楽人だったジョニー・マー。それぞれが進化していく過程で異なるフィールドを目指してしまうのは、ある意味必然だったのかもしれない。それって、ピンク・フロイドにおけるロジャー・ウォーターズ(精神性)とデヴィッド・ギルモア(音楽性)の確執に、どこか似てるような気もする。ウォーターズとギルモアがそうであったように、こういう種類の根本的な“方向性の相違”ってアーティスティックな制作おいて決して交わらないし、それが原因で仲違いしたバンドってなかなか修復しないんだよね。なまじ人間関係やストレスでボロボロに崩れてしまったほうが、まだ元サヤに収まりやすい気がする。

というわけで、最近は伝説のバンドが再結成するのが流行りみたいになってるようだけど、おそらくスミスだけは絶望的かと思われます。
う〜む。金のためだと割り切ってくれても全然いいんだけどね。頑固一徹なモリッシーの場合、そうもいかないんでしょうね。
0 7

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2009年08月>
      1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
3031     

最近の日記

もっと見る