mixiユーザー(id:1940449)

2018年05月18日22:51

184 view

世間知

世間知とはなんだろうか
まー 一般には世間を渡る術くらいに思われているだろう
早い話が学術的な「知」ではない 民俗的な「知」だ

近代的な法整備がなされた中で人間が生きているのは
本当にごく最近のわずかな時間でしかない
しかもその方法は世界をくまなく覆っているわけでもなく
先進国の一部のある状況をかろうじて覆っているにすぎない
いわば社会実験の最中であると言ってもいいくらいだ

そこが問題なんだな これ

では世間の多くを覆っているのは何かと考えれば
それは「世間知」だ

宮本先生の民俗学を読み返していて
そういえば尾高先生はどう言ってたのか気になった
尾高先生とは憲法の主権論で
主権は「ノモス」にあると「ノモス主権論」を主張した先生だ
当時の論争としては 一応負けたという判定だったらしいが
最近何かと見直しがなされているらしい
「ノモス主権論」とは簡単に言えば
主権は人間の理性にありとするような主張で
いささか抽象的ではあるが
抽象性という意味では「国民主権」も大した違いはないので
言わんとするところは似たようなものになる

このノモスの一般大衆的前提とでも言えるようなものが「世間知」だと思う
法が社会に行き渡らず
知っていたとしても高速力に乏しい場合
大衆は自らの内部に「掟」を作り社会を円滑に回そうとする
その掟はどの地方も同じではなく
どの職種もまた異なった掟を持つ
様々な横のつながりの中で滞りなく生きていくためには
それらの多数ある掟を知っておかねばならない
一つの社会の中に閉じこもっていれば
それは「世間知らず」となる
世間師になるまでは行かずとも
自分が生きている地域・職種は多種多様な社会の掟の中の一つにすぎない
という相対化を身につけることは 生きていく上で重要なことだ
身分と土地に縛られていたと言われる近代から戦前くらいまでの農村部などにも
そういった感覚が根付いていたことを宮本先生は一つ一つ拾い上げている

異種との邂逅の中で共有できるものを見出すのは喜ばしい体験だ
また異質な部分を見出すのも楽しい
二つが出会った時には
双方は核となる部分は絶対譲らず
双方が笑って妥協できる部分を見出そうと努力する
「あいつのことだからな しょうがあんめーよw」みたいな感じだw
その辺りの妥協点は 往々にして「情」である
損得や法ではない
そして「情」と対立するのが「筋」だ
「かえーそうだが 筋だからしょうがないだろう」
というような話になる
「筋」はおそらくだが
シャーマニズム的な宗教的感覚として幾分の強制力を持つ
古いシャーマニズムを残している沖縄地方の信仰において
先祖の供養など祖霊崇拝の中で用いられる「筋」とは
大前提として意識しなければならない宗教的意識を指す

その辺りの経験を積み
世間の中で魚のように泳ぐ術を身につけた人間が世間師だろう
身につけた知識が「世間知」である

この世間知がなければどうなるか?
といえば
何かとストレスがたまるのだ
法は未だ現在においても
内発的な自覚を持って全員が守るようなものではない
車の運転などが典型例だが制限速度を誰もがきっちり守るような社会は
今後もおそらくは来ない
法がある程度の規制となり得るのは
「世間知」が基盤となるものだけだ
田んぼの真ん中の見渡す限り誰もいない農道で制限時速以下で走るような人間は
「世間知らず」だと笑われようw

世間を知らねば法に依存するしかない
あるいは公共の教育で強制しなくてはならない
ただその法は如何とも不徹底で未完成だ
山本夏彦が書いていたが
「馬に荷馬車を引かせた男がいた 男の馬は何かに驚き道端を歩いていた少女を跳ね飛ばして殺してしまった 男は泣いて詫び できることならこの命を代わりに差し出したいと願い出た」
不幸なことではあるが ここでその少女の親は男を許すしかない
その時代 賠償金などというものは頭にすら浮かばないし 男に払えるわけもない
不幸はそのまま不幸であって
代償を持って償えるものではない
これは近代法の世界でも本質的には変わらない
しかし 許せない分だけストレスはたまる

何かとセクハラ・パワハラのご時世ではあるが
様々なストレスの源泉には
世間知の衰退があるとおれは思っている
社会が均質化したように見えても
やはり土地の掟 職種の掟
また 近代化された会社組織にも
その企業の掟は強く存在する
日本は一つの価値観で結ばれているわけではない
そこに法と暴力装置の権力だけを前面に押し出しても
世間は渡れないw 角が立つw
夏目漱石の時代ならば尚更だったろう
しかし 今でもそれは変わらない
そしてそれを身につけようとしても
学校で教えてくれるわけじゃない
会社の上司が教えてくれるわけでもない
教えてくれるどころか その逆で
自分が一番正しいのだと主張するだろう

宮本先生の生まれた島では
世間を知らなきゃダメだってんで
女の子たちが家出をしたそうだ
仲の良い何人かが集まって
きゃっきゃきゃっきゃしながら四国のお遍路に回ったりする
中にはそこで所帯を持つものもいた
もちろん無銭旅行で そういう人を止めてくれ 飯を食わせてくれる家がたくさんあったという
で 何気ない顔をして帰ってくる
そうやって世間を知った

違う人がいて その人と付き合うには
否定より先に強い同意が必要だ
しかし 絶対交わらない二つの線はある
今日日の言葉で言えば多様性を本当の意味で認めるには
交わらない線と 「世間知」が共通言語として
二つ同時に必要になる

ジゴ坊みたいになりたいw
3 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2018年05月>
  12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
2728293031  

最近の日記

もっと見る