人が農耕を始めるにあたって
気候の影響で従来の採集生活では人口が維持できなくなったから
というのが従来の説だ
狩猟採集とごく初歩的な農耕をどっちつかずにふらふらと行う時期があり
その後本格した農業は大量の収穫を確保できるようになり
もうその頃には農耕から離れて生きる道はなく
さらなる安定した収量を求め
灌漑を行い そこに王権が生まれた
みたいな感じが政治の発生の今のところの歴史的絵柄だ
あくまでも「今のところの」だけれども
いうまでもなく
こういった筋道は歴史進化論をベースとしている
マルクス史観と言ってもいいしヘーゲル的であると言ってもいい
そんな「大きな物語」の一つだ
たとえば
チグリス川のほとりで一つのバンド(少数の移動差し遊民のグループ)が
大麦の原始的な選択的栽培を行っていた
うまくいった年にはたくさんのムギが食える
動かなくてもいいかな 来年もここで
それを遠くから見ていた遊牧民がいた
彼らは牧草地をかき回してムギを植える連中を好ましく思っていなかった
地べたに這いつくばりやがって・・・
しかし 彼らはヤギとムギを交換しなければ生きていけない
彼らが集める素朴なパンと肉を交換しなければならない
馬に乗り 槍と強力なチョッパーを自在に操れる遊牧の民は
ふと 交換しなくてもいいのではないか
と考えた
彼らは穀物を略奪し
女を奪い 子供をさらっていくという生存戦略を考える
そして 来年も作れと 地を這う人々に告げた
支配と従属の発生があり
王権が発生する
みたいな流れがあってもいいんじゃないか
きっとインデアンは白人が来なければそうやって国家を作っただろう
縄文が長い間採集生活と簡単な栽培で暮らしていたのも
遊牧がなかったからじゃないか
まー 現代社会も構造的には同じだ
ありもしないものをあるとする金融や
実質から遊離した株式や
いりもしないものを売ることが力を持てば
支配権は移る
そうやってだんだんクソになっていくんだろうけど
なかなか そこから出られないんだよねw
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