mixiユーザー(id:1940449)

2017年11月27日00:16

176 view

浄土真宗考.6 妙好人という道徳

http://www.mitene.or.jp/~nose/hanasi18.html

ちょうど良い資料がネットに転がってたので
興味のある方はご一読を

書いてみたいなと思うようなことが
おれなんかが書くよりはるかに良くまとめられているので
ああ やっぱ浄土真宗はこういう方向に行く人が出てくるよなと
改めて思った

親鸞のいう「親鸞一人がためなり」という部分は
概念的に仏教の根本思想にあるものなので
結構理解が困難な言葉だ
「一即多多即一」というような縁起と捉える考え方もあろうし
鈴木大拙のように霊性の表れであると取ることもできよう
「一即多」については様々な解説があるのでそちらに任せるとして
鈴木のいう霊性とは内なる霊的体験をいう
別にお化けが出たとか宙を飛んだとかうっかりエクトプラズムを吐いちゃったとかではない
「即非の論理」の事で事実としての眼前に見える論理に支えられているものと
論理に支えられていないし目にも見えないものを同時に全く疑いなく認識できる状態のことだと言えばわかり易かろうか
ただ 鈴木大拙の場合
現代の人であるからそれは必ずしも般若心教的なものというよりは
心理学というか今で言えば認知心理学的な
人間の認知能力をいうにかなり近い
【「必ず救われるのだ」という信心に至る瞬間を体験した親鸞】
というのが鈴木のいう霊性だろう

上で紹介した文章は
浄土真宗にその部分が伝わっていないという
親鸞以降の後継者にその意識なく
蓮如に至って全く消え失せているという

一部引用してみる

引用始め
「才市は阿弥陀と出会い、仏と出会い、南無阿弥陀仏と出会い、本願と出会うということをさかんに言うわけですが、そこでは十方衆生利益という本願の働きはまったく誤解され、おのれ一人を救うものとしてのみ受け取られていきます。それは鈴木大拙が「親鸞一人がためなり」という言葉をとりあげて、「霊性的直覚」と持ち上げていることと同じなのですが、本願の誤解に他なりません。「親鸞一人がためなり」という言葉は、阿弥陀の本願の受けとめを一般化するのではなく、己自身の身に強くひきつけて、「まさしくこの親鸞一人に何とか気付かせようという働きであったな〜」という、親鸞の主体的本願体験を表す言葉であることは言うまでもありません。問題はその内容です。それを「阿弥陀の本願は、この親鸞一人を救いたいということであった」としてしまったのでは何にもなりません。自己満足そのものです。そうではなくて、親鸞という一つの命の存在は、十方衆生という命の連鎖の中の一つなんだ、ということへの気付きを促すものであるわけです。そして、己自身への執着によってその命のつながりに目が開かず、あくまでも自己を中心とし自己の欲望を満足させることに沈没していることへの気付きを与えようとするものです。それを、ただこの親鸞一人に伝えたいが為の本願であったな、という言葉であるわけです。

 その本願に対する誤解は、先の道宗においても同じことです。というより、蓮如の受け止めた真宗がそうであったと言うべきでしょう。命あるものすべて(十方衆生)を救いたいという阿弥陀の願いを、「私もそのうちの一人だな〜。だから私も救われるんだ、よかった、よかった」と、自分の都合のよい受け止め(親鸞はそれを「自力のはからい」と言う)で、自分一人が満足することだと間違えているわけです。言い換えると、「十方衆生」という無限に大きな世界を、自分の汚れた小さな手でつかんでいる、ということです。無限に大きな世界からの働きを受け止めるためには、自分の手を出すなと親鸞は言います(「他力というは義なきを義とすともうすなり。義ともうすことは、行者の各々のはからふ心を義とは申すなり」)。自分の手を出してつかむことは、無限に大きな世界からの働きを拒絶していることです。それゆえに、自分の手の汚れも小ささも、根本的に問い返えされることがありません。「汚れ=愚かさ」は、言葉としてあるいは観念的な概念としてのみ受け止められるにすぎません。ですからそこからは、人間社会の中で自分がどう十方衆生と関係を作っていくのかの視点は生まれません。蓮如の教学の中に、親鸞と同様の「この世をいとふ」という姿勢は見られないのです。」

引用終わり

この人も仏教者の例に漏れず鈴木大拙嫌いみたいですが
鈴木大拙の関心は基本的に学問としてのそれであり
仏教そのものというよりは
その認知にあるので仏教学者ではあるけれども
基本的に西洋哲学の方法論とその流れの中にあると理解べきものだ
そこらへんが信仰者からすれば中途半端なものに見えるのかもしれない

で その結果いかなる影響が生まれたか
というところが 重要なポイントになる

再び引用

引用始め
「■真俗二諦

 それを別の視点で言えば、真俗二諦という理解がまさしくそれにあたります。真俗二諦については別稿で述べたいと思いますが、ここでは簡単な概略と、才市の歌の中の真俗二諦について触れておきたいと思います。

 仏教本来の真俗二諦という言葉は、「真諦」とは教え、「俗諦」とはその教えに基づいた生き方、といったものであったようです。しかし本願寺教団の歴史の中で問題になってくる真俗二諦はそうではありません。「真諦」とは「信心」であり、「俗諦」とは「現実の社会の中での生きよう」のことでした。さらに言えば「現実の人間社会の規範の通りに生きる」ことを意味しました。その二つはどちらも大事なものであり、心の中では「真諦=『信心』」を、世間的には「俗諦=その時代の規範=時の政治体制への従属」を持ちなさい、というものでした。

 そのような真宗理解が始まるのは、親鸞以降すでに覚如の時からです。しかしそれが「真俗二諦」という言葉を用い、しかも「祖師相承之宗義」(親鸞からず〜っと受け継いできた真宗の教義)であることを宣言し、そしてその具体的政治的な姿勢として、時の天皇中心の新しい政治体制に従順であれと教えたのは、明治4年に明如によって出された『広如御遺訓消息』です。

 明治維新政府は早々から神道による国家再編を進めます。その強引な神道国教化=仏教排斥に対して、真宗門徒からは大きな反発もあり、相当の動揺もあったようです。明治元年早々に、北陸の真宗門徒から「排仏の徒 官軍を討て」という檄がとばされたという記録もあるようです。そのような時流の中で、この消息は出されます。

 「天皇様の国に生まれたものは、そのご恩をこうむらない者はありません。仏法が広まることも天皇様が護ってくれればこそです。そうであるならば、仏法を信ずるものはどうして政府の命令を粗末にしていいことがありましょうか。私たち浄土真宗は世間の法を根本とし、仁義など(世間の儒教的価値観)をまず大事にし、神を敬い世間道徳を守るべきであるのは、伝統的に定められているところです」
 「真俗二諦の法義をまちがえないで、生きている間は天皇様の忠義な国民となり、限りない天皇様のご恩に感謝し、命終わった後は浄土への往生をとげ、永遠の苦難をまぬがれる身となられますよう・・・」

 全国の門徒に呼びかけたこの消息は、その後の本願寺教団の方向性を強く指し示すものになりました。のちの戦争への全面支援体制も、ここから生まれたことは言うまでもありません。
 さて、まさしくそのような時代の流れを受けて現れた一人が才市でした」

引用終わり

「妙好人とかくれ念仏」の主要なテーマもこの辺りだ
地頭に逆らわず 幕府にも朝廷にも 権威とされるものには一切楯突くこともなく
年貢を納め正しい人間として生きよ
と蓮如の時代から繰り返しアナウンスされることになる
同時に他宗を非難するなときつくお達しも出ている
争いごとは一切避けよということだ
蓮如の時代においては
おそらく 権力の空白の地である寺というアジールを守り抜くという意志から出たものであろうと推測される
しかし 江戸の世に入る頃には
それなりに積極的な権力の中の宗門というものを意識することになってゆく


「念仏の行者敬し慎むべき法」
1.諸仏菩薩諸神などを粗末に扱ってはならない
2.真宗以外の諸宗派を軽んじてはならない
3.倫理道徳の基本である仁義礼智信を守りなさい
4.四恩話するるべからず(父母の恩仏法僧の恩権力に対する恩)
5.妻子を養い身をおさめ死後の世界を信じなさい

という五箇条の掟を江戸初期の浄土真宗法主がアナウンスする
もし背いたら波紋であり
そのような不届き者を見聞きして捨て置くものも同罪であるとする

幕末になるとこれが一層明確な形となり
「税金は必ず払え 真宗が滞りなく広まるのもお上のご恩がそうさせてくれたのである
ただひたすら国に対するご恩を思い 内心には極楽浄土に行くための信心を決定しなさい」
とまでなる

そして維新後は
http://www.mitene.or.jp/~nose/bosoboso-a.html

先ほどの引用先の違うページから

引用始め
「そして時代は明治へ変わります。幕府が滅び天皇を中心にした新しい政府が始まります。明治新政府は国内統一の手段として宗教を利用します。神道です。日本は神の国であると宣言し、国家神道への路線を推し進めていきます。その一環として仏教を排撃する姿勢を見せます。神仏分離、廃仏毀釈です。明治元年のことです。これに対して、北陸の真宗門徒は「排仏の徒 官軍を討て」という檄をとばしたといいます。政府はあわてて時の門主広如さんに、なんとかしろと命じます。明治4年、広如さんは亡くなる直前、遺言としての消息を残します。有名な「御遺訓御書」と呼ばれるものです。その中で、「今は天皇様の時代になった。天皇様のご恩を受けていない者はない。私たちは、真俗二諦の教えを間違えずに、この世の中では天皇様の忠義な民としてそのご恩に感謝し、来世ではお浄土に往生させていただいて、永遠に苦しみを免れる身にさせていただきましょう」と、述べています。

 その後時代は大正から昭和へと、戦争の時代に突入していきます。本願寺では「戦時教学」と呼ばれる、戦争のための教義理解が進められました。時の門主勝如さんは「真俗二諦は親鸞さんから受け継いだ真宗の伝統だ」と述べ、積極的な戦争協力を進めたのでした。それが先ほどの敗戦直前の「驕れる敵を撃滅せよ!」という消息(手紙)に至るわけです。 」

引用終わり

こんな感じになっちゃってるw
まー 俗世のことなどどうでもいいからとも理解できるし
あるいは 宗派を守ることが先決であると判断するのもやむを得ない事情があったのは理解できるところだが
ここでの浄土真宗法主のアナウンス(「ご消息」)は
ほとんど教育勅語の精神と同じもので
内容的には儒教から宗教色を取り払ったようなものだ
まー 親鸞はもとより蓮如でもびっくりするだろうw

妙好人は こういう時代に人々に広まったもので
ただ宗教的な模範というより
市井の宗教人の道徳的模範でもあったわけだ

当然のように
そのような流れの中から
「隠し念仏」は広がりを見せる
我々の方が親鸞上人の教えに近いはずだという確信も生まれ
それが爆発的に広がることになる
実際 倍々と増えていったようで
正確な資料こそないが
数万はくだらない数の信者がその教義に魅了されたという

そういう意味で先にも書いたように
妙好人と隠し念仏は 発生の時期こそ違えセットで考えたほうが良いという話にもつながってくる

まーいずれにせよ
近世から現代にかけての話で
浄土真宗というものが現在我々が知っている形をとったのは
驚くほど最近になってからだということが言えると思う

続く
2 4

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2017年11月>
   1234
567891011
12131415161718
19202122232425
2627282930  

最近の日記

もっと見る