曖昧な笑みを浮かべながら俺は考えていた。
『一体どこで人生とやらを間違えたんだろうか?』
目の前には職場の仲間たちが無数の泡をはきだす琥珀色の液体を飲み干し、その無数の気泡の集中体を口元につけながら騒いでいる。
届いた時には山と積まれていたから揚げにバターで炒めたジャガイモはまるで吹き飛んだように空になっていて、余韻のように皿上でテカテカとと光っていた。
今日は職場の送別会。 特別親しくも無かったが今年定年を迎える先輩の集まりに参加していて、お決まりの乾杯からはとうに一時間は立っている。
同僚達はある者はウイスキー、あるものは日本酒、ウーロンハイと思い思いに酒を飲み、そしてそれらに含まれたアルコールによって饒舌に話をしている。
アルコールは好きではない。 酔えば酔うほどに鬱屈した思いが口から身体から出ていくが、決して心を埋めてはくれず。
むしろみっちりと詰まったネガティブな思いが消えた心はガランドウな空っぽの部屋となって寒々とした風が吹くからだ。
それをなんというのだろうか? 虚無というほどには強くはなく、スッキリしたというほどには心地よくは無い。
ただただ広い道の上で何も持てないで歩いているような感覚に陥る。
だがこういう職場のイベントや飲み会というものを否定する気は無い。
仕事ばかりでは心が詰まるし、ビジネスライクでいられるほどにこの国の民は良くも悪くもドライでは居られないのだから。
酒で騒ぐことだって若い頃から否定したことは無い。
飲みすぎなければアルコールは感情を刺激し、また人生に彩りを与えてくれるものだろう。
では何故俺はこうなのか?
率直に言ってしまえば『そういう人間なのだ』という言葉しかでてこない。
騒々しい空間の中で、染まりきれないバツの悪さと隔離されているよな疎外感を隠しながら、俺は目の前にある酒と同じように微笑を泡のように表面上に浮かびあがらせているだけだった。
『大丈夫、私が居るよ』
家に帰りついてからのきっかり一時間後に彼女は囁いた。
荒れ果てた部屋のテーブルには途中で購入した飴色の小瓶が二つポツンと置いてある。
『だってしょうがないもの、あなたには何も無いのだから』
彼女がまた囁く。
違う。 俺は…。
まどろむような思考の中、ぼうっとテーブルの上の小瓶を見つめる。
『いいえ、あなたは変わらない。何も楽しめない、何も嬉しくない、だから人と一緒には居られないの…ただただ薄ボンヤリとした人生を過ごしているだけ』
甘く、優しい彼女の声に反駁したくなるが、言葉が出てこない。 ただただ『違う…違うんだ…』と要領の得ない言葉だけが反響する。
『違わないでしょ?あなたは何もしていない、その代わりに何も起きない人生を選んだ。仕事も恋愛も何もかも全てを諦めてただ流されるままに死んだように生きていただけ、それにやっと最近気づいただけなのよ?』
そうなのかもしれない。 人生とは選択の連続なのだという真理をありふれたフレーズと半笑いで受け止め、そして受け流し、ただただ日々を安楽に過ごしていただけなのかもしれない。
冒険もせず、蛮勇もせず、ただただ決められたルールを僅かに逸脱することなく、それでいて上のレールに至るための努力はせず、毎日テレビと娯楽に時間を消費し続けていたのだ。
十代の頃は気づかなかった。 有り余る体力と気力が永遠に続くのだと錯覚し、生活という現実から半歩離れて過ごすことができたのだから。
二十代前半になってもまだ気づいていなかった。 生活の泥沼に足を踏み入れつつも、沼底に沈むことのないよう決められたレールを歩き続ける。
そして二十代も後半に差し掛かったところで、自分があまりよろしくない人生になっていることを周囲を見て思い始めた。
しかしその頃には生活と仕事に追われ、そこから抜け出すことが困難だということにやっと気づいてしまった。
そして今、二十台を越えて三十台に達した現在の俺は戻ることも進むことも出来ないでズブズブと腰まで浸かり、はるか先に見えている行き止まりを認識しながらも目を瞑って誤魔化しトボトボと歩いているのだ。
先が見えないというのも辛い。 だがそれは破滅がわかりきっていることに比べれば天と地ほどにも違うだろう。
かつてパンドラの箱を開けたことで世界には様々な災いが広がったという。
だがすぐに箱を閉じたことで抜け出ることが出来ず、人の手元に残ったモノが一つだけあったそうだ。
それは希望。
何も見えないからこそ人は希望を持つことが出来るのだ。
先が見えないというのはとても辛いことではあるが、逆に考えれば希望が手元にあることで人は生きていけることが出来る。
でも俺には希望が無い。
かつてあったそれは自身の心の箱の中からいつの間にか抜け出していて、いま見えているこの先の絶望に俺は打ちひしがれている。
「ねえ、だからあなたは私から離れられない。離れたらいずれ心は朽ちて、やがて身も滅びていくことでしょう」
悪魔のささやきにも似た彼女の言葉に俺は無言で同意する。
そうだ。 近い未来に来る望みの無い場所に辿り着くまで俺は彼女に頼る。 頼りきる。 依存する。 すがりつく。 ドロドロと溶けるように。
彼女の胸の中でグズグズになったかつてあった希望の残骸を胸に俺はこれからも生き続ける。
自ら倒れることも出来ず、かといって離れた『それ』を手繰り寄せる気力も無い俺はダラダラと飴色のビンの中にある彼女という『希望』に抱かれて。
終わるまで。 俺自身が彼女に食い尽くされるまで。
破滅的な幸福感に包まれながら俺は曖昧に笑いながら眠る。
生きていく為に。 いま終わらないために。 やがて終わるために。
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