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2019年04月30日09:57

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カントと道元は意外と近い?

もう半世紀も前のことになるが、高校生だった私が禅寺で修行のまねごとをしていた時のことである。あるとき、老師と茶飲み話をしている中で、「『無』ってなんですか?」と訊ねてみた。老師は「究極の主体性じゃ。」と答えて、続けて言った。「と、口で言うのは簡単じゃが、その意味するところはなかなか分かるもんじゃない。徹底的に坐りこんで、地獄の窯の口を覗いてくることじゃな。なにごとも徹底することが大事なんじゃ。」と仰られた。

ウィトゲンシュタインは、「腕を上げようと意志することはできる。しかし、その意志を意志することはできない。」と述べた。なかなかこのような表現を思いつくものではない。彼は本当の天才だと思う。内観的洞察力という点において、ウィトゲンシュタインの右に出るものはいない。一般に、人は自分の意志は自分が自在に起こしていると思いがちであるが、その意志の生まれてくるところを実は分かっていない。禅仏教では、そこのところを「無」という言葉で表現しているのである。

禅宗無門関を編集した無門慧開禅師は、この「無」について、「虚無であるとか、有無の無であるというような理解をしてはならない。」と述べている。哲学用語でいうところの存在者ではないということなのだろう。他に適当な表現方法がないのであえて「無」としているのである。

あまりこんなことを言っても取り合ってもらえないのだが、私は前々から、禅仏教でいうところの「無」はカントの超越論的統覚とほとんど同じだと考えている。カントが超越論的統覚という代わりにそれを「無」と呼んでもほとんど違和感はない、と言ったら言い過ぎだろうか。

カントはあくまで「主観が客観を認識する」という主客二元の立場をとるところが禅的視点とは大きく違うところだろう。「『私は考える』ということが、すべての表象に伴い得るのでなくてはならない。」というカントの言葉は、禅的視点から言えば「世界がある」という所与のことを指摘しているに過ぎない。『私は考える』という直観から「私」を抽出できないことはカントも認めるはずだと思う。ここで『私は考える』を持ち出しているのは、超越論的に措定した統覚と日常語としての「私」を結び付ける為だけでしかないはずだ。
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