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2019年04月15日11:16

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ものとこと

ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」は次のような言葉で始まっている。

  1. 世界は成立していることがらの総体である

  1.1 世界は事実の総体であり、ものの総体ではない。

なぜか私たちは、「世界はものの集まりである」と考えがちである。それには理由があって、そのように想定しないと、他者とのコミュニケーションもままならないし、物事の予測も出来なくなってしまうからである。世界を自分の経験とは切り離されて存在するものの集まり、つまり客観的なものの集まりであると想定するのである。

しかし、よくよく考えれば、私の経験と切り離された客観的な「もの」というものは実はどこにも存在しないことに気がつく。例えば、サイコロの形である立方体様のものについて考えてみよう。立方体は正六面体とも言われる、6つの正方形からなる立体だからである。しかし、私達は6つの正方形を同時に見ることなどない。サイコロは視点によっていろんな見え方がある。私たちは、その多様な見え方を総合して、理想的な立方体を想像しているだけである。

ウィトゲンシュタインの言う、「成立していることがら」=「事実」というのは、実存的視点から見る事実、つまり経験を通じて知る事実に他ならない。このような視点から見れば、西田幾多郎の「意識現象が唯一の実在である。」という言葉もよく理解できる。

≪少しの仮定も置かない直接の知識に基づいて見れば、実在とはただ我々の意識現象即ち直接経験の事実あるのみである。この外に実在というのは思惟の要求よりいでたる仮定にすぎない。≫(「善の研究」第2編第2章)

「この外に実在というのは思惟の要求よりいでたる仮定にすぎない。」の「この外に実在」というのは意識現象以外、すなわち物体現象のことであるが、それは「思惟の要求よりいでたる仮定」すなわち仮説であると言っている。目の前のテーブルにリンゴが有るという事態があるとする。我々はつい「そこにリンゴが有るから、それが見える。」と考えがちだが実は話は逆で、「リンゴ様のものが見えるから、そこにリンゴが有ると信じる」のである。ものがあって経験があるのではなく、経験があるからものがあると措定しているのである。

かつての実在論というのは、誰にとっても共通の(客観的)世界というものがあって、そこにものが我々の経験とは切り離されて実在している、というものであった。それが、今はやりのマルクス・ガブリエルによる新実在論になると、すべてのものがそこにあるという一つの世界などというものは存在しない、と言い出した。それぞれの意味の世界があり、ものごとはそこに実在しているのだという。それぞれの意味の世界というのも、それぞれの視点から見える経験世界というふうに解釈すれば、カントや西田幾多郎とそれ程かけ離れたものではないように思う。

というようなわけで、現代哲学の潮流は「もの的世界観」から「こと的世界観」にすっかり移り変わってしまった、と言ってもいいと思う。

ここで言っておきたいのは、仏教ははるか昔から「こと的世界観」の立場をとってきたということである。空観というのはもともと絶対的な実在物とか本質というものを認めない。すべては関係性の中から生じてくるパターンとして現象しているに過ぎないからである。現象つまり経験、それ以上のものを認めないのである。
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