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2019年04月22日06:16

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哲学者は謙虚?

哲学をやるというような人は大体において頭のいい人が多い。「世界で一番自分が頭が良い」と考えている人も少なくないのではないかと、私は想像している。なぜそんなことが言えるのかと言うと、(まことに恥ずかしいことだが)私自身がそういう人間だったからである。傲慢と言えば実に傲慢と言うしかない。もちろんそんなことは錯覚である。「世界で一番頭が良い人」は世界に一人しかいないのだから、宝くじで一億円当たる確率よりもはるかにありえないことに違いない。

社会的にはほとんど落ちこぼれと言ってもおかしくないほど愚かな私でさえ、そのような傲慢な錯覚に陥るのはなぜだろうか? おそらく、人は自分が考え得ることしか考えられないからだと思う。あまりに当たり前すぎることだけど、内観するだけでは自分の限界には気づくのは不可能だということだ。加えて、これも実に当たり前のことであるが、他人の考えていることは外から見て分からない。つまり、他人の言うことの内で自分の理解できるのは、やはり自分が考え得ることだけなのである。それで、つい、「世界中の誰もが考えたことのないことを、今自分が考えている」というような妄想を抱いてしまう。

しかし、少しでも哲学に足を踏み入れれば、そのような妄想は一挙に吹き飛ばされてしまう。「世界中の誰もが考えたことのないこと」と思っていたようなことは、とっくに誰かが考えていたというより、実は哲学の入り口に過ぎないようなレベルの低い思いつきでしかなかったということに気づかされるのだ。議論はもっと深くて洗練された場で展開されているのである。自分では頭が良いつもりでも、勉強すればするほど上には上があることを思い知らされてしまう。したがって、知的優越感というものが哲学の動機であり続けるということはあり得ない。ものを知れば、自分の知見の狭さを知らされるのが普通である。哲学とまともに向かい合ってればどうしても自己否定と態度変更を迫られることが度々起こる。謙虚にならざるをえないのである。

哲学をするということは超越論的な視点を獲得するということなのだろう。自分に見えていない限界があるということを知ることが重要なのだと思う。ソクラテスの言う「無知の知」というのも、そういうことではないか。

ミクシイには「哲学」という言葉を冠しているコミュニティがたくさんあるが、率直に言ってどれもあまり面白くない。自分の知らないことをもっと知りたいとか、自分の理解したことを他の人にもわかってもらいたい、そういう共感を持ち合いたいという謙虚な気持ちが欠けているので、優越感のぶつけ合いから感情的なやり取りが多くなってしまうのだろう。
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