曹洞宗の僧侶である南直哉さんが、仏教とは「死ぬ練習ではないだろうか」というようなことをブログの中で言っている。もっとも彼は(自分の)死については絶対に分かり得ないことを前提として、矛盾しているテーマの中に自分を投げ入れることについて論じているわけで、「死ぬ練習」というのは「隻手音声を聞く」と同じようなもの、一種の公案であろうと思う。
「恐山あれこれ日記]
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私は、哲学として自分の死について語るのは絶望的に不可能であると考えている。死にまつわるイメージはどれもこれもが他人の死からの連想によるもので、死そのものの概念にはいかなる直観も伴わないからだ。死についていくら言葉を弄しても、「なにか言えたつもり」になっているだけのことで、哲学には程遠いような気がする。
「すべての人は死刑囚である」という表現が無意味だというようなことを言っているのではない。それどころか、気の利いた、優れた表現であると思う。ただ、それは文学的表現ではあっても、私の考える哲学ではないと言いたいのである。
「(自分の)死」という言葉の指示対象が分からないまま議論を続けても、哲学的には無意味というものだろう。「なにか言えたつもり」になればなるほど哲学からは遠ざかる。
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