mixiユーザー(id:64140848)

2018年11月15日15:20

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この世界は言葉では表現できない

前回の日記に対してho-anthroposさんより、「『非言語的な世界の受容』という言葉が指示している事態を、言語なしでは、判断という形式に構成することができない、ということではないか」という意見を頂いた。
しかし、認識というものが「言語を通して判断という形式を構成する」することならば、「世界は言葉によって認識される」という表現は同語反復的でそもそも意味をもたないのではないだろうか。そんなことを改めて言う必要はないように感じる。

言葉をもたない赤ん坊に認識能力がなければ、母親と他人の区別もついていないことになる。試合中のボクサーがなにも認識していないということもあり得ない。自分に向かってくるパンチを認識しなければ、それをもろに喰らうに決まっている。

哲学者が思考している時、その思考はすべて言葉によって覆いつくされている。彼らがものをいうときは常に言語によって思考しているのであるから、非言語的状況というものを思い出せないのだと思う。

言語の使用は必然的に抽象化を伴う。ボクサーや空手家の直面する状況を言語で表現するには、言語はあまりに平板すぎるのである。彼らは言語を介さないで具体的状況に対応する必要がある。

禅問答においては、坊さんがいきなり「喝っ!」と叫んだり、時には相手の顔を張り飛ばしたりする場面がある。それには、この世界を言語を介してではなく、一挙に了解せよという意味がある、と私は解釈している。


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