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2018年11月21日16:53

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新実在論

マルクス・ガブリエルの「なぜ世界は存在しないのか」をやっと2/3まで読み進んで、彼の言いたいことが分かってきた(ような気がする)。

いかなる領野も特定の視点のパースペクティブを帯びているのであるから、すべてのものが中立的に存在する絶対的基盤としての「世界」というものを前提することには無理がある。だからこそカントは観念論を採用したのだろう。

しかし、ガブリエルはカントの前提には不条理があると指摘する。カントは、純粋理性批判のB59において、「‥‥(われわれが直感する事物は)我々の中にだけ存在するからである。」と述べているが、ガブリエルはこの「我々の中にだけ」というのは空間的な場所規定であり、また「我々」という言い方そのものも時間的な継続を(根拠なしに)前提しているのではないかと懐疑を呈している。

ガブリエルの指摘はもっともなことで、「我々の中にだけ」という場所規定がア・プリオリな空間の中においてだとすると、すべてを含む「我々の中」とア・プリオリな空間の無限の入れ子ができあがってしまうし、「我々の中」がア・プリオリな空間と別個のものであればそれこそ意味不明である。

では、ガブリエルはどのようにしてこの難問を解消したのだろうか? 彼はまず、「存在すること=なんらかの意味の場に現象すること」と定義する。つまり、対象は「世界」にではなく、限定された意味の場に存在するというのだ。「意味の場」というのは視点の数だけあるのだろう。だからその物自体がいろんな意味の場に存在することもある。ここで私が引っ掛かったのは、それらの「意味の場」もまたなんらかの意味の場における対象であるというのである。意味の場が別の意味の場の中に現象する対象だというならば、明らかにそれは無限遡及する。これで良いのだろうか? なんかすっきりしない。 

問題は、意味の場という領野の対象化のされ方が一律ではないらしいということにある。例えば、竜宮城というのは「浦島太郎」の物語の中に存在するが、この場合の意味の場は「浦島太郎」という物語であり、それははじめから物語として対象化されている。では、街で友人の鈴木君とばったり出会った時、鈴木君はどういう意味の場に現れているのだろうか? 「11月21日午後5時の御坊哲の視野」という意味の場ということで良いだろうか? では、「11月21日午後5時の御坊哲の視野」という言葉で対象化されたものは、どの意味の場に現れているのだろう?

私にとっては、「11月21日午後5時の御坊哲の視野」という対象は、その後の私が記憶に基づいて構成したものである。私に言わせれば、「私の視野」は実存的なものであって決して対象化できない。その時、友人の鈴木君は端的に表れただけなのであって、決して(対象化されうるような)なんらかの意味の場に現れたのではない。あえて言うなら、鈴木君は「無の場所」に現れたのである。それは存在者ではないから対象化できないものである。
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