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2018年11月26日14:17

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進化論はなぜか目的論的に解釈されやすい

進化論について語る際に、「高い木の葉っぱを食べるためにキリンの首は長くなった」式の説明がされることがままある。しかし、これではダーウィンの思想は捻じ曲げられてしまう。

「〜のために」というのは背後になんらかの意思が働いているかのような表現だが、もちろん自然界にはそんなものが見いだされたためしはない。進化論というのは結果論であり、なるべくしてこのようになっているというような当たり前のことしか言っていないのである。

一般的に言って、進化論を目的論的に解釈する人は自然適応というものを過大評価する傾向があるような気がする。現在生存している人類は、既に種族保存を至上命題としているかのような存在にまで到達している、と見ているのではないかと思えるのである。そうすると、「善とは種族繁栄のためになる行為である」などと言い出す人もいるわけである。

確かに、なん百万年もの自然淘汰をくぐり抜けてきた結果、現在生存している生物の本能は種族保存という視点から見れば相当洗練されているのは間違いない。だから、自分の欲望とか価値観を反省していくと、それらを種族保存に結び付ついていると結論づけるのも、ある意味では無理のないことである。正直に言うと、私も中学生の頃そのようなアイデアに取りつかれたことがある。

しかし、そのような考えは所詮こまっしゃくれた子どもの思いつきに過ぎない。デイビッド・ヒュームも言っているように、「そうである」ということからは「そうであるべき」ということは導き出せない、というのは哲学的な鉄則である。我々の本能が種族保存に適していたとしても、それは結果的にそうであるだけのことで、種族保存という目的のために我々の本能がそのようになっているわけではない。もちろん、種族保存に価値を見出す人はそれに向かって励んでいただければ、それはそれでいいのだけれど、それを「善」と定義づけて他人にまで押し付けるのは行きすぎだろう。そのような考えは優生思想にも結び付きかねない危険性があると思う。
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