うちの家族は異常な
ネコ好きなんです。
というか、
チャオが大好きなんです。
普通、9年も飼ってたら構ってあげる回数は少なくなりそうなもんだが、小池家の場合は別。いつも
誰かしらチャオにちょっかい出してる状態で、ひどいときはチャオの取り合いになるくらい。
でも当然ながら、チャオの手足は四本しかないので、全員があの柔らかい肉球にありつけるわけじゃない。「猫の手も借りたい」とはこのことだ。
昨晩。そんな小池家のアイドルが死んだ。
深夜2時、動物病院にて心臓発作で息を引き取った。
ついさっきまで元気だったチャオが。俺の脚に飛びかかってきたチャオが。
死ぬなんて想像できなかったチャオが。突然死した。
獣医曰く、以前から心臓に疾患を抱えていた(と思われる)が、その兆候に気付けなかったのが悪いらしい。
たしかに、いま思えば1ヶ月前の発作の時点でサインは出ていた。そのときはさすがに夜通し看病したけど、翌日になるとそんな心配はよそに、チャオは元気にベランダを走り回っていた。それを見て、「また変なもん食っただけでしょ」と片付けて、医療機関に掛かることを怠っていた。ほかにも、以前に比べて若干ながら呼吸が荒くなってた気がしたけど、特に気にも留めなかった。
明らかに飼い主側の怠慢。
むざむざチャオを見殺しにしたのも同然。
チャオは人知れず病魔と闘っていた。それもみんなの前では気丈に振る舞い、隠れたところでコソコソ苦しんでた。そうそう、アイツはそんな奴だった。
「生ある者はいつか終わりがくるからしょうがない」とか、
「悲しんでも天国のチャオは報われない」とか、
そんな、ファッキンキレイごとはウンザリだ。
僕は以前、チャオに去勢手術を施した日、こんな日記をホームページにアップしたのを覚えている。
『僕はチャオから動物としての権利を奪った。人間側の「ペットにしたい」という利己的な思惑のために。こうなったら、もう死ぬまで思う存分ペットとして可愛がってあげるしかないだろう。』
ははは、最高だね。
文字通り、ペットとしての天命をまっとうさせたってわけか。迅速に。消費的に。
というわけで、俺の現在の精神状態は、ここ数年でもおそらく最悪の部類。
祖父が亡くなったときはまったく泣けなかったのに、今回は恥も外聞も捨てて泣きじゃくってしまった。
もちろん一睡もできず、いくら飲んだって酔えない。
決まったばっかりの仕事も、さっそく仮病を使って休んだ。もっとも、妹たちは泣き腫らしてパンパンになった目で、ちゃんと仕事に向かったらしいが。
彼女たちは偉い。親父も火葬の手配を着々と進めている。
ところが俺は、会社サボってこともあろうにPCに向かって現実逃避してる。最低だ。
でもね、会社とかどうでもいいんだ。
もうどうなったっていい。シラネ。
もしチャオが生き返るんなら、俺のクビなんて何本でも差し出せるのに。
でも当然ながら、そんなことをしたってチャオは生き返らない。
もう二度とチャオを抱っこできない。
もう二度とチャオの鳴き声は聞けない。
もう二度とチャオが柱から顔だけ覗かせることはない。
もう二度と
チャオはカラスと相まみえない。
もう二度とチャオが甘えてゴロンゴロンすることはない。
もう二度とチャオは刺身を狙えない。
もう二度と…。
(今、下の妹が堪え切れずに帰ってきた。泣きじゃくってる)
っていうか、この虚無感はなんなんだろう。現実味に乏しくて、ふわふわと夢みたいで、それでいてドロドロと胸のあたりにまとわりつく、この嫌な感じ。まるでドス黒いワタアメが身体じゅうにこびりついてるみたいだ。
あるいは、『1Q84』の舞台のように、どこかでスイッチがパッと切り替わり、「チャオの生きてる世界」と「チャオの死んだ世界」との分岐ができてしまった、みたいな。今もパラレル的に「チャオの生きてる世界」が同時進行してるような気がしてならない。
それより腑に落ちないのは俺の行動。なんでこんなときに、よりによって日記を書いていられる?頭の中のモヤモヤが文章のかたちをとって次々と吐き出されていく。むしろこうしてないと落ち着かないっていうか、吐き出さないと気持ち悪くてしょうがない。
まるで二日酔いのときに、喉に指突っ込んでゲロってるみたいだ。
本日は嘔吐日記。
あっ、そうそう。今朝、時計を見たらさ。
たまたま4時44分だったわけよ。
これって、「死を想え」って意味だよね?メメント・モリだよね?
チャオの天国からのメッセージだと受け取って良いんだよね?
明日は会議だ。
なんだそれ。シラネ。
死にたい。
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