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2025年03月02日18:02

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「ゆきてかへらぬ」を見て。〜熱き血潮の証したる花の色も認められぬまま、散る桜の花でありけり〜

太宰治をモデルとする放蕩生活を送る夫の作家に振り回されながらも受け入れ共に歩む女性を描いた「ヴィヨンの妻 桜桃とタンポポ」。前時代ならではの耐える女の話と想像されるが、ダメな男を愛しているという自覚による毅然とした姿勢の美しさと、生活苦や愛人の存在にも怯む様子を見せない凛々しさ。取り囲む演技巧者の中、主演の松たか子さんの印象を決定づけた作品でした。

そんなわが心のマスターピースを手掛けた根岸吉太郎監督と脚本の田中陽造氏のタッグの再来。大正時代の京都で知り合った詩人中原中也と女優の長谷川泰子が東京へ移り、批評家として既に名をあげていた小林秀雄と出逢い、単なる「お知り合い」には留まらぬ愛憎の三角関係を成してゆく。このプロットには、前作から16年振りの吉報として胸の内に灯をともしてくれたのだけれど。

三人の中で、初めて名前を聴く長谷川泰子が「お話」をけん引する役回りで、「ヴィヨンの妻」同様、したたかでカッコいい女性像を打ち出してくれる事を期待するも。果たして、松さんが、私個人の中で二世タレントのイメージで固まっていた殻を砕いたほどに、作品の中に留まりその「役」を納得させられるのか不安が覆ったのですが。プロットから演者同士の「親密」な描写も不可欠と想像していたので、特に年齢制限も付されてないのも気掛かりだったのですが。それら懸念事項が、あたってしまいました。

冒頭、京都の小路の両側に立つ宿屋か下宿屋の瓦屋根の合間に石板葺きの小路が覗いて。泰子が、二階から瓦屋根に落ちている柿を大窓の枠を片手で掴んだ体勢で拾い上げている姿を映し。同じ画面の下側に赤い番傘を刺して路を歩いて来た中也が建物に辿り着く迄が捉えられていて、片手に柿、もう片手に鞄を下げた泰子が玄関から出て来て中也と鉢合わせる長回しは、若い演者が備える運動能力あってこその二人の性急さや運命を見る側に植え付けて、良い出だしではあったけれど。

大正時代が舞台という事で、和装と洋装が混在して。古風な日本家屋に、アスファルトでない石畳の大通りを走る路面電車にダンスホールとか根付き始めた欧米文化の端緒も画面に伺えて。製作上の制限の中、ありし時代を体感させる意味では良いのだけれど。三人の背景となる、当時の文壇界や映画演劇界が背景としては触れられているけれど、イマイチ状況や影響力も計りかねたし。泰子と中也も、先の長回しの場面の物語が始まる以前に、大部屋で暮らしていたのかどうなのか判り難いまま東京へ移動して行って。

小林秀雄と中也がランボー(詩人の方ね)談義で二人の世界に入り込んで、泰子が蚊帳の外って場面はあったけれど。それ以降の泰子が精神的バランスを崩すのも、見る側には差し迫って来なく。小林秀雄に扮する岡田将生さんも、途中、とっとと二人に見切りを付けて奈良に引っ込んでしまって。残された二人は、外見は整っているとしても、どう見てもスマホ文化に慣れ親しんでいる「今の顔」が透けて見えるから、「詩」とか「チェーホフの桜の園」といっても、乖離して見えてしまって。

劇中で、秀雄と中也が公園の平板椅子に並んでかけて桜の花びらが散る様子の詩的かつ哲学的な捉え方を談義して。核になる場面だろうから記憶しておこうと過るも記憶の網目を零れ落ちてしまった。こちらの加齢による退行にあがなえていないのもあるのだろうけれど、目に写る登場人物の生き様から言動が浮いてしまって、「何か、良い事言ったでしょ」って感じで聴き流されてしまった。

長い充電期間を経ての映画製作なので、商業的成果を経るために世間に広く馴染みのあるキャスティングとなるのも充分理解できます。テレビも含めて露出が絶えないのは、優秀なブレインやスタッフの助力、売り方もあってこそですが、作品の「顔」として起用されるのは、その人には「華」がある訳で。そして、主役を張れるだけの演者さんの中には、役作りを経てスタッフの引き立てもあるでしょうけれど、作品の中に登場人物として存在して見る人を引き込む力を発揮される方も多く居るのですけれど。自分の「色眼鏡」も承知ではありますが、ルックスや知名度が、本作の原動力にはならなかったみたいです。

拙文にお付き合い頂き、ありがとうございました。
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