物語から何かしらの共感だとか示唆を与えて貰おうって受け手姿勢で臨むと、徒労に終るかもしれない。それ故、本作のヒロインは、見る側の感動装置に働きかけを負って仕組まれた感情展開の再現装置とはなっていない。多くが好ましいと受け取られる「良い人物」に変身したりもせず、「これは、許せない」って反面教師的存在に祭り上げられたりもしていない。
特に社会に出て「目標」もある訳でもない21歳のカナが、送る日々の生活が綴られるのだが。住まいや食事から面倒見が良い上に、彼女への尊重が高じて夜遊び朝帰りにも寛容過ぎて刺激のない男ホンダと、芸能関係の親の威光を実力と勘違いして自信ばっかりで、映像の作り手を目指している割には、作品としての「成果」に行きつくのは遥か遠そうな男ハヤシと二人との関係性が、中心で。だからと言って、同年代に刺さるようなファッションも、ましてや、幅広い世代に訴求する若い恋人たちへのシンパシィなんて呼び起こしてくれない。
作品で見せられるのは、何も持たない自分自身への苛立ちや不安が、先の男たちを含め、どうにもならない状況だとか周囲に対しての怒りに転化したかの様に、あたり散らしが時に暴力的な行動に現われれば、藁にもすがる一心で、自治体で雇われたカウンセラーから心理療法も試して。ひとりの若い娘が、暴れもがく姿で綴られるという、字に起こすと個人の「狭い世界観」なのだけれど、2時間を超える尺にもかかわらず、作品から興味を削がれる事無く、ついつい引き寄せられて、終わりまで見切ってしまった。
大学の映画学科に絶望した後に初長編初作を撮った若き女性監督と、それに惹かれて役者として芽が出る前から監督に起用して貰う事を懇願した目下売出し中の女優二人の才気が、噛み合ってこそ産まれ出た本作。
先に書いた、端からすれば、犬も食わない単なる痴話喧嘩に映る場面も、街中のロケで路上に止めた車を起点に、二人が歩道に出て、また、車に戻るという流れを、まるで「一つの流れ」の様に繋いで見せて、どうでも良い場面なのに引き込んで。会話の相手の声ではない、店の周囲の客が発する下らない話の音声を敢えて高くしての聴き手の関心が、相手に無い事の表現だとか。取り留めなさ過ぎの粗筋を、海外の映画祭で見せても観客を繋ぎ止められる中山瑶子監督の手腕は、確かに実感できました。
中盤ぐらいまでは、相手のクリエイターとしての大成を望まない「ベティ・ブルー」の日本転生版かと見做す位に、ただ粗暴なカナと見做していたけれど。カウンセリングの中で、「心で思っている事が、行動に見えないのが怖い」とか。昔、付き合った女性との間に起きた出来事をモチーフに書いたハヤシのスクリプトを通読して「お前のしょうもない懺悔で、世の中の人達を感動させられるのか」ってあたり散らしは、監督が女性だけあって、未だ多くの男性が比重を占める我国の映画界への恨みつらみを代弁させているのにも取れて。
一見すると、陳腐な女性像にも取られそうなところ、「少子化と貧困化の時代を生きてやるんだ」って表明と共に、か弱い存在である自身も容易には受け入れてくれない「時代への認識」をカナに込めた故に、他者に対する激しい言動も不快に繋がるどころか、先に書いた見せ方も伴って、好意をもって見守れる。
そして、何と言ってもカナ役の河合優実さんが、監督の創意を受けて、見事に応えております。今年初めの宮藤官九郎さんのTVドラマで、1980年代カルチャーに染まって魅せて、カルチャーギャップで沸かせると共に、不適切な阿部サダヲ父想いの娘役として多くの視聴者に印象を深くとどめた技量は、確かでありました。
令和の時代を生きる一人の女性の周辺記に過ぎない作品で、無造作に素肌の背中姿をカメラに晒すほど、映画が始まる前からカナは、その中に居たかのナチュラルな感覚を纏っている。つまりは、情けなさが男の観客としては同情的なホンダ役の寛一郎さんら出演者が取り巻く作品世界をリードしている。彼女あって、作品が成立している。
今度公開される「八犬伝」は、数多い演者の分、出番も少なそうですが。この秋の東京国際映画祭のコンペでお披露目される、河合さん出演の2作品が、来年見られるので楽しみです。
拙文にお付き合い頂き、ありがとうございました。
シネマサンシャインららぽーと沼津 シネマ9にて
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