mixiユーザー(id:1041518)

2023年08月11日11:55

87 view

あっけない

たてつづけに義理の兄、元会社の上役(私の定年時は社長)が亡くなったと連絡があった。死線を彷徨う肉体や魂に暑い夏は過酷なのだろうか。お二人とも、重篤などの話は聞いていなかったので絶句しかないのだが、ほどなくその不在に慣れる早さにも驚く。自分は生き残ってまだ日常を繰り返していくことを思うのだった。

詩にも書いたが、私は人の死のための涙を親父が死んだ時に使い切ってしまった。いらい人の死に臨んで涙を流したことはない。産みの母が亡くなった時にはひそかに詩を書いたがどこにも発表しなかった。すぐ下の弟が亡くなった時は「二歳」という詩を書いたが泣くことはなかった。城侑さんは親父にとても似ていて、危なかったが詩を書いて涙は回避した。

近頃、人の死に接して感じることを一つの言葉で表すとしたら「あっけない」につきるのではないかと思うようになった。いつか来る私の死に対してもそのように通り過ぎてほしいものだと思う。黒田三郎さんは詩「流血」でこんなふうに書いている。「やがて/黒田三郎「という」/飲んだくれがいて/死んだ「ということである」/というふうに/そんなふうに/僕らの日々は/過ぎつつある/世界で/いや/ほんの一丁か一里先で/たえず流されている血/それをじかに/自分の目で見るように/見ようともしないうちに/日々は過ぎつつある」(後半部)

だが、人の死は私には逆に「血が流れなくなること」に思える。黒田さんには死が戦争やその他の流血と結びついていたのだろう。それに彼が亡くなったのは60歳頃で、この詩が書かれたのは5年以上前なのでおそらく55歳に近づいた頃である。彼は若く、その血も若かったのだ。黒田さんは言うかもしれない、「君は血を見ようとしていないのだ」と。だが、今の私より20歳も若造だった黒田さんが正しいとは限らない。今詩集のあとがきで黒田さんにタテつくことを覚えた私なので、ここでも言っておきたい。死は流血ではない。血が流れなくなった生き物が忘れられていくことだと。それは「あっけない」できごとなのだ。死という荘厳な事実に対して、あるいは生きてきた人間の尊厳に対して、なんと軽い言葉を使うのかとお叱りを受けるのを覚悟で書いておきたい。禁忌のまえで生きている者同士、カッコ付けをしなくてはならない事情も重々知っているが、私の本当の気持ちを書いておきたいからだ。人の死はあっけない。激しく驚いて、驚き終わったら、いつまでもすがりついていないでやさしく忘れてあげる。それが「あっけない」の意味であり、優しいことばだと思う。ごく親しい人には愛着を捨てろといっても無理かもしれないが。

「日本語大辞典」を見たら、「呆気ない」の「アッケ」は口を大きく開いたさま、アまたはアアという説〈猫も杓子も〉や、口を開けるというアケ(明)の急呼との説〈大言海〉、アクケナシ(飽気なし)の急呼説〈名言通・大言海〉、アフ(敢)ケ(気)ナシ説〈語源辞典〉、アアという間もないとの意〈両京俚言考〉などたくさんあった。「あっけない」って「アテナイ」と響きが似ているのも、なんとなく親しみを感じる。

むろん「あっけない」が適用されるのは亡くなってしまった人へであって、できる限り別れは先にしてほしい。古くなったにしても血が流れている間は。


7 6

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2023年08月>
  12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
2728293031  

最近の日記