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2022年12月29日14:55

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私にとっては大切な「無駄」

ギリシャ語で読む『メタピュシカ(形而上学)』(アリストテレス)の大学ノート24冊目が終了。今回は1か月と14日かかった。明日から年末年始の休暇に入る、というのは、勤め人みたいで懐かしい。

一冊ごとにキリが付いたら、何かヨタ話を書く習慣だ。そこでさっきまで来年分のテキストを筆写しながら考えたことを。私は常々、この読書が何の役にも立たないし、みんな無駄なことだと言ってきた。誤訳だらけで恥ずかしいので、私が死んだら最初に焼き捨ててほしい物体なのである。原文を写しただけなら、約2400年間、誰かが写して今日にまで伝えてきたことに似てよき行為であるが、間違いだらけの訳が付随するとなるとこれはマズイ事態であって害悪に近い。

にも拘わらず、自分で書き写した古代ギリシャ語と、私の誤訳とそれをただす先人の訳で埋まったノートは私にとってとても大切なものである(自分が生きている間だけだが)。それは今まで知らなかった木の名前を知り、四季ごとにその木の新たなたたずまいを観る楽しみと同じだ。それらの知識を図鑑としてまとめたり新たな発見をする人たちは「役に立つ」存在だが、ただ木を見て喜んでいる人たちは「役に立つ」とは無縁で、いわば無駄な存在である。しかし役に立たないからといって無意味かというとそういうわけではないだろう。

無駄というのは人生で案外大切なものだ。私が「無駄なこと」というのは自嘲を込めてではなく(多少それが混じる時もあるが)、客観的に見て、社会や歴史に対して「役立つ」とは言われないこと、の意味である。だから社会的価値とは別に、私にとってはこの「無駄」はいとおしいものであり、大事に積み重ねていきたいものである。何かを残そうとしてではなく、今何かをしていることがうれしいのだ。そのうれしさには苦しさや困難も混じるのでやりがいとなるらしいのだが。

始めて十年以上たつのに今だにカタコトで読み進んでいるのは進歩がなさすぎる、と思うことはむろんあるが、これはセネカの言った「年老いて外国語を学ぶことは愚かなこと」を地で行っているからだろう。それでも敬愛するセネカに私は言いたい。あなたの言うのは役に立つ言語習得の意味だが、私は最初から役に立つものを目指していない。それを話す人がこの地上に一人もいなくなった死語と友達になりたいだけなのだ。私がカタコトだったら相手もそれに合わせてくれる。それが読書というものだろう。来年1月か2月にこの本を読み終わる予定だ。


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