切符を買い求める映画が、スカッとさせるだとか、物語や人物から共感を得るだとか、見る側の求めに応じる、「商品」であるという認識に、ここ暫く囚われていたのに気づかされた。本作の共同制作者の面々に、原案と音楽の担当者も、投資に見合うリターンや、ヒットで証明される大衆支持ではなく、そういう「足かせ」をハメないクリエイティビティ、創造性の発露に心を向けられている。映画が、ひとりの人間の熱意や創作欲を発信するための、大掛かりな伝達手段であることを、知らしめて貰いました。
なので、受け取る側の「寛容さ」が、試されてしまいます。メイン宣伝素材のビジュアルの通り大げさに、出だしから芝居掛かってお披露目されるのが、「ミートゥー」時代にあって、やり場の無くなった卑小きわまりない生き様に、遅きに失した反省と云うか懺悔に彩られた、ある男の肖像です。
数少ないフランチャイズ出演作のスターウォーズで、ハリソン・フォードの息子を演じて以来の身勝手さを押し出した、アダム・ドライバー扮するスタンダップコメディアン(客いじりの綱渡り極まる芸風で、持て囃された独りしゃべくり芸人)のヘンリーが、熱烈的に結ばれたマリオン・コティヤールさんのオペラ歌手アンとの間に、妻の才能を引き継いだ愛娘アネットを設けるも、ステージで、「笑い殺す」ハズの客からヒンシュクをかったのを境に、公私の隔たりなく、「独りよがり」を押し通して、ヘンリーの内にたぎる鬱屈が、自身の中では「愛」と変換されて、アンやアネットへと突き立てられる。
字に起こしただけでも、距離を置きたくなるヘンリーの行状を、ミュージカルと称されていますが、ライブ録音の声楽劇風に見せられて、「どうぞご勝手に」ってサジを投げられても、おかしくない。ヘンリーみたいに、あからさまな迷惑は掛けないまでも、判らなくもない「部分」のかけらが、当てハマる余地もあって、私は、諸手をあげて、この映画を受け入れられます。もう、昔過ぎて、記憶も定かではないけれど、「パリ テキサス」で、やっと探し当てた妻ナスターシャ・キンスキーが働く、「鏡張りの部屋」で、とうとうと謝罪と自己弁護の独り語りをするハリー・ディーン・スタントンの姿が、降りてまいりました。
アート面した自己満足の代物と受け取られかねないけれど、そういう批判に対して配慮する「謙虚さ」のあらわれが、始めの方に記した、本作の「芝居がかった」表現です。「息を殺して、これからの展開を見つめてください」とナレーションを被せたうえで、スタジオブースから本作の監督レオス・カラックスが、「スタート」の一声を送ると、本作の原案兼音楽担当のスパークス兄弟らが演奏を始めるも、音にのせて、監督、音楽担当者らスタッフらは、建物を出てゆく。メインキャストも歌いながら途中で、その一団に加わって、アメリカの夜の街角をそぞろ歩く。一同から、お客さんと製作者に向けての「挨拶」が済むと、キャストが劇中の衣装を羽織ってそれぞれの芝居場所へと車両移動して行く。
この一部始終を、ワンカットの移動撮影で納められているのですが、監督の掛け声から、作品が、まさに動き出す様子に、映画が送り手達によって生み出される「生き物」であるのを見せつけてくれて、「アメリカの夜」の終幕の描写も、思い起こしました。この辺りが、商品であるまえに作り手個人のものである事を尊重する、欧州らしさが漂っていて、地方で映画を見る者には、久々の感覚。
フィクションならではの「芝居」のお約束の最たるものが、アネットの「実体」でありますが、冒頭シーンを詳らかにしたようには敢えて触れませんが。ヘンリーが、自身の不甲斐なさを掻き消そうと、母から娘に与えられた「天賦の才」を使って、ステージパパの悪行ぶりを、お芝居の約束をもってトコトン描写するのには、やり過ぎの感じもして来るところ、最後の最後での「実体」のすり替わりには、ヘンリーの「目覚め」や「反省」が、こちらにも降りて来るようで、感慨深く映りました。
ほぼほぼ、キャストの「歌」にのせて物語が進行して、もう長い事活動しているらしいスパークスが、どんな音を聴かせるのかも楽しみではありましたが、ロックミュージカルと称される割には、落ち着いているうえに情緒的で、見る前のイメージとかけ離れたけれど。冒頭写された演奏場面での飄々としたキャラクターには興味が持てたので、エドガー・ライト監督が手掛けた彼らのドキュメンタリーは、見てみようかな。
「ポンヌフの恋人」以来のレオス・カラックス作品で、作品は勿論、公表されている私生活についても、その間の事には疎くて。ジュリエット・ビノシュさんをミューズとして作品を撮っていた時季から、監督の創作へのモチベーションが、誰によって、支えられていたのか知りませんでしたが。この感想をまとめるにあたって、作品に纏わる記事を見ていたら、冒頭のシーンで、スタジオブースに座る監督の傍に控えていた若い女性は、私が見ない間の作品に、起用していた女優さんとの間に生まれた娘さんだとか。
ネオ・ヌーベルヴァーグの騎手と持て囃されていた当時、自身の映画作りで、途中、予算も使い果たして撮影を中断させたうえに、関係を築いていた女優さんとも別離して。その頃の若気の至りに対する自省の念だとか、子供を得た事で自身が歩んだ半生から見えたものとかを込めたものだとか。本作は、表現者の偽りない、「胸の内」が、余すところなく詰め込まれているのだなと、あらためて確信したのでした。
拙文にお付き合い頂き、ありがとうございました。
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