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2021年06月18日17:53

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片間国

『天書』(てんしょ・あまつふみ・あめのふみ)というものをご存じだろうか?
『天書記』・『天書紀』・『浜成天書紀』とも言い、全10巻。
奈良時代後期の公卿で、京家の祖、参議・藤原麻呂の嫡男にして、従三位・大宰員外帥となった浜成(724-790)の撰とされる歴史書だ。

私の場合、家記を書くために調べていた時、内閣文庫で出会った本で、『先代旧事本紀』等と同様、野史の類かな?と思って、写真撮影だけして放っておいたのだが、何気なく見返したら、チョッと気になる記載があった。
その内容は後述するが、先ずこの本について基礎知識を書いておこう・
以下『ウィキペディア(Wikipedia)』参照

『天書』には三種ある。
1.逸文の『天書』(逸文のみで現存せず)
『長寛勘文』に1条、『釈日本紀』に28条、『諸社根元記』、『日本書紀纂疏』において逸文が引かれている。
2.『天書』(詳本)。全十巻(神代から皇極天皇までの編年体の史書)
逸文をおおよそ含んでいるので上記の1と同じものとも考えられるが、逸文を基にした近世の偽書との説もあり、『天書』逸文とこの詳本との異同については結論が出ていない。
3.『天書紀』(略本)。全十巻(神代のみの物語)
内容は逸文と相違し、『本朝書籍目録』に「天書十巻」「大納言藤原浜成撰」とあることから、後世の偽書であるとされる。

「2」は全く内容が異なるので触れない。
「3」には、写本として、以下の伝がある。
国会図書館本1部
 享保11年(1726年)の奥書
内閣文庫本
 享保6年(1721年)の奥書
 明和6年(1769年)の写本を明治18年(1885年)8月に写したもの。

この「明和6年(1769年)の写本を明治18年(1885年)8月に写したもの」を、私は見たわけだ。
これらは、 文和2年(1353年)の卜部兼夏の写本を永享9年(1437年)に飛鳥井雅世が写した旨の奥書がある同系本で、10巻に分けてはいるが、神代のみを記した略本。
それを、正徳三年(1713)、駿河の総社宮内の志貴昌澄から得た源光海が書写し、訓点をつけた本を、明和6年、斎藤清長が書写し、それが、現在の千葉県南房総市に鎮座する莫越山神社(なこしやまじんじゃ)に伝わり、明治18年(1885年)8月に太政官で書写させたものらしい。
本文は几帳面な楷書なのに、明治18年(1885年)8月書写の書き込みは殴り書きなので、担当官の覚書なのだろうか。
「太政官文庫」の印があるので、太政官にあったことは間違いないのだろうが、なぜこんな本を写させたのかもわからない。

ウィキペディアでも「偽書の疑いが特に濃い」と書かれているが、確かにそうでしょうね。
莫越山神社は式内社で、社記によれば、神武天皇元年、天富命が忌部の諸氏を率いて、安房国に来臨し、東方開拓を進めた時、随神の天小民命が祖神である忌部の神、手置帆負命・彦狭知命を祀ったのが創祀、とされる古社で、現在伝承社は南房総市沓見と南房総市宮下の二社あって確定されていないが、どちらにせよ古社なので、箔をつけるには絶好だったろう。

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沓見の莫越山神社

さて、本題だが、伊弉諾・伊弉冉二尊の国生みの条にこんな部分がある。
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「大日本峡曲之秋津洲(本州)に続いて、熊襲国と片間国を生んだのだというのだ。
「伊予二名之里洲」(四国)の前にだ。
『古事記』の国生みには熊襲国も登場するが、『日本書紀』では無視されている不順(まつろ)わぬ国が何でこんなところに登場するのか?
九州でも、筑紫は四国に続いて生まれている。
そして、隠岐に続いて、百済・高麻(高麗 高句麗)・新羅木(新羅)も生まれるのだが、これが偽書だとすると、偽作者の世界観を表しているのかもしれない。

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そしてひっかかるのが、熊襲国に続いて出てくる「片間国(かたまのくに)」だ。
熊襲(くまそ)は、球磨と曾で、日向も含む九州南部であろうが、片間国っていったいどこなのだろう?

「かたま」が後に訛って「多摩」になり関東を指すとか、話は作れそうだが、根拠のない話だ。
『天書』についての先行研究は既にあって、私が無知なだけで解決済みなのかもしれない。
しかし、時々ひっくり返す蔵書で遊ぶのは許されるだろう。

日本の中世は、偽作のオンパレードで、それはそれで面白いのだが、その作者の頭の中を想像していると、飽きないというか、楽しくなる。
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