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2018年07月26日18:42

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中動態的日本語

「ハーディは健康を害した」という文章を読んで一瞬、意味がよくわからなかった。トマス・ハーディが「健康」という何かを攻撃し害を与えた?みたいな。ふと我に返れば「健康を害した」は体調が悪くなったり、病気になったりしたということを意味する普通の日本語であると気付いた。誰かが誰かを害したというのではなく単純にある人が健康でなくなっただけだ。オレは疲れていて頭がおかしかったのだと思い、この一瞬の読解不能事件はなかったことにしようと決めた。

とはいえ、これは中動態を考えるにはいいな、と思った。「害する」は明らかに他動詞で、目的語が必要である。能動態と受動態の文脈だから害を与える者と与えられる者が必要なのだ。そこで「健康」を目的語としているが、実質的な意味としては彼が体調を悪くしたというだけの意味である。逆に「気分を害した」となると、誰かによっていやな気持ちにさせられたという受動的な意味なのに文章構造としては自分が自分の「気分」を傷つける、と能動的に表現する。極端なのは自分が自分に害を与える「自害」は自殺と同じ意味である。日本語は難しい。

「自殺」と「自害」の違いは、時代劇ふうにいうと本当は死にたくないが追い詰められて死ぬので、敵に捕縛され辱めを受けたり処刑されるくらいなら自らの手で、という点が強調されているように思える。

近頃では「自殺」と微妙に区別された「自死」が市民権を得てきたようだが、これも中動態的である。「殺」は必ず殺す人(能動者)がいて殺される人(受動者)がいる。その両方が自分の場合を「自殺」という。これに対し「死」は単に生きていないこと、あるいはそこへの移行の瞬間を指すので、殺し殺されることとは関わりないのが一般的である。「死ぬ」は自動詞で、目的語を要求しない。だから「自」を付けることによって行為は「自殺」と類似していることを示しつつ、それとは違うニュアンスを与える。自分を殺したのではなく自分を死んだだけなのだ、と。

「自殺」「自死」の厳密な区別があるのか気になったので辞書を引いてみた。私の持っている「広辞苑」は第4版(1991年)と古いので「自殺」は載っていたが「自死」の項はなかった(それより新しい版をお持ちの方がありましたらお教え下さい)。ネットで検索すると「大辞林」三版では「自死」は「みずから死をえらび取ること。自殺。」とあり、「デジタル大辞泉」では「意思的な死を非道徳的・反社会的行為と責めないでいう語」とあった。つまり、日本でも(キリスト教ほどではないにしても)自殺は責められるべきもの、もしくは禁忌の対象として、やわらげた言い方が好まれるのだろう。

かと思えば、ある未開民族は「死」は必ず誰かに殺されたものとみなしていて、家族が死ぬと他の種族・部落の誰かを復讐のため殺しに行かねばならない風習を持つという。相手は誰でもよい。当然、子どもや女、老人など弱い者が狙われる。一人死ぬと必ずもう一人死ぬことになるので、結果として人口減少政策の実践でもあっただろう。この世界では人が「単に死ぬ」ということはありえない。死には能動態と受動態しか認められないのである。

古代語の中動態では「上手はゲームのやりすぎで寝不足となり自分で死んだ」というところを、現代の能動受動態の表現では「過度なゲームへの埋没が上手を殺した」となる。そうならないように「妻からよくおこられる」は中動態の中で分離した受動態である。話を元に戻すとハーディはそんないい加減な人間ではない。田舎からロンドンに出てきて、仕事が終わってから深夜まで勉強しすぎ、またテームズ河の泥から立ちのぼる汚れた空気や悪臭が体に障ったと続く(この「さわった」も面白いが長くなりすぎなので諦めよう)。それはともかく、この本をくれた後輩は、つまらないことを書いている暇があったら『テス』でも読みなさい、と思っているだろう。だが、その前に『芸術の中動態』と『君たちはどう生きるか』を読むのが順番なのだ。






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