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2018年07月23日16:55

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ためらわずに?

連日の暑さで死者も出ている。ニュースでは「ためらわずに冷房を使いましょう」が定番表現となった。わが家にはエアコンがないので、「ためらい」ようがないのだが、数年前には半ば自己主張の含まれた「冷房がない」というフレーズは今や、「大きな声では言えませんが」というニュアンスになってきた。私にもしものことがあれば「70歳の老人が倒れていて、冷房はない家でした」と断罪調となり、テレビで見た人は「それは自己責任でしょ」となるのが目にうかぶ。

たしかに今年の夏の熱さはきつい。しかし私は逆に冷房が耐えられない。昨日、知り合いが演奏するオーケストラのコンサートに行ったが、行き返りの電車やバスの冷房やコンサート会場の冷房は強すぎて、少し調子よくなってきた喉がまた痛み始めた(私は体が冷えると喉に来るタイプなのだ)。会場では長袖シャツを一枚多くはおっていたにも関わらず。これは体質的な個人差や、生活習慣の違いがあるだろうが、私は公共交通の強烈な冷房には憎しみを抱いている(炎天下を歩いてきた人には瞬間の快さがあるだろうが長く乗っていると苦痛である)。息子に私も歳なのでそろそろエアコン導入も考えろと毎年言われているのでいつか導入しなければならなくなるのだろうか。

それは個々人の問題だが「命にかかわる暑さなので」「ためらわずに冷房を」の「ためらわずに」という表現に違和感を感じるのは私だけだろうか。連日病院に多くの人が搬送され、現に死者もでているのでかなり強い要請として緊急且つ緊迫感のある表現をとっていると言われればそれまでだが、「ためらわずに」ということはこの場合「判断に際して何かを考えずに」と聞こえる。人間の生き死にに関わることであるから、我々の指示に黙って従え、と。もうひとつ気になるのは「ためらわず」という時、人々は何をためらうと想定しているのだろうかということだ。寒いか暑いかという感覚的なことで人はためらわない。ためらいは理性的な決断に伴うものである。福島の原発事故後の「電力を節約せよ」キャンペーンの記憶があって、冷房をガンガン入れることへの後ろめたさがあるとしても、この際そんなことは考えなくていいですよ、という意味にも取れる。原発がなければ電力が不足すると言い続けてきた電力資本とそれを擁護する政府は、現在次々と原発の再稼動が始まっているご時勢にあって、この熱中症は潤沢な電力事情をアピールする絶好のチャンスである。

何度も繰り返すが、現に死者が連日出ている状況にあって、強い表現は避けられないのだろう。しかし、この表現に私は違和感を覚える。「ためらう」ことは何かを進めようとする際に意志の不明確さや弱さからくる夾雑物となることも多い。どちらかというとあまりほめられない態度である。しかし、それは逆にいうと、そのまま突き進んでしまってよいのかという不安からくる用心深さであったり、何かに流されそうになった時の理性の警告でありうる。いずれにしても個人内部から出てくるものである。だから「ためらうな」というのは、個人の考えを捨てろということである。迷っていたらそれ以上考えずに、我に従えということだ。不用不急な外出はするな、水分と塩分をとれ、自分の感覚を信じるな、ためらわずに冷房を使え云々。正しいこと、生命を救う道は、我々が教える、という語調には人々が生きていく知恵を半ば失っていることを前提とした響きがある。そしてそれはその通りなのかもしれないが。
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