映画とかドラマといふものは、すべてファンタジィである。
どのやうな泥沼の愛憎劇でも、猟奇的なスプラッタでも、ファンタジィである。
なぜか?
そは「俳優」が演じるからだ。
俳優、といふはまづ、凡百の人間のうち、容姿に優れてゐるヒトがなるものだ。
「性格俳優」とかいふ言葉もあるが、それとて方便であり、「これはちょっと・・・」といふほどの醜女や醜男は、俳優にはなれぬ。
つまり、俳優である、といふ事ですでに、現実離れしてゐるのだ。
自分の周りを見渡して見るが良い。
10人の友がゐて、それらの全てが美男美女であるわけはなからう?。
10人中ひとりか、多くて二人、どこに出しても恥ずかしくない容姿のものが居れば良い方だ。
大概の市井の人々は、醜女醜男のなかに生きてゐるのだ。
少し前に「東京島」といふ映画があった。
桐野夏生の同名ベストセラー小説の映画化作品であるが、これが酷かったのだ。
なぜか?
そは主役を木村多江が演じてゐたからだ。
この物語は、過酷な無人島でのサバイバルにあっては、容姿に劣る中年の女性であっても、それをめぐる男同士の対立が起こる、といふ人言の根元に迫るテーマを描いたものだ。
たしか元になったのは実話で『アナタハン事件』で調べるが良い。
そんな物語を、世間の範疇で語っても充分に「美女」に分類される木村多江が演じる時点で、キャスティングに失敗してゐる、としか云ひようがない。
事実、劇中の木村多江は完全な「清楚な孤島の美女」であり、これは極限状態でなくても争いは起こるわな、と思ふばかりである。
難民中の嫌われ者、醜男で知性も品性も低い「ワタナベ」といふ人物を窪塚洋介が演じてゐたのも完全なミスキャストであった。窪塚は、野卑さのかけらも演じ切れておらず、ただ南国の島に遊びに来た、ちょいとオツムの弱い都会のイケメン、そのものである。
そこで、冒頭に挙げたテーマに戻るわけだが、この物語を映画化しやうとする時点で、「俳優」を使うことはありえない、といふ事になる。
「俳優」であるかぎり、全て凡人より容姿に優れてゐるからだ。
トレンディドラマなるものが流行った時代、たれもが自分もあぁなのだ、といふ幻想を抱かされ、世界の利潤は動いた。
どこの世界に、10人の男女がそれぞれ美形、などといふ集団がありえやうか。
9人の凡人は、ひとりの美貌を引き立てるために存在するのだ。
それが社会といふものだ。
まぁ、どーでもいいけどよ・・。
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