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2017年01月14日10:56

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友人のベスト10への仕返し

先日の読者会のあと昨年読んだ本ベスト10を年賀状に書いている渋谷卓男さんとその話になった。私が1位にした『忘れられた巨人』(カズオ・イシグロ)が彼の10位以内に入っていなかったのだ。(「ゼッタイに上手さんが反応してくると思った。入れ食いだ」、と笑っていた。)彼はその前の『私を離さないで』がよかったので期待しすぎたのかもしれない、と言っていた(この本の評価でも彼と私は逆だ)。彼はSFが好きで、私はファンタジーが好き、という差が出たようにも思った。SFとは現在はありえないが、未来にはあり得るかもしれないという、科学をベースにした物語だが、ファンタジーは最初からまるでありえないことを前提とした不思議な物語である。彼はそのSFがリアルだと思い、私はリアリティがないと感じている。逆に今度の寓話の世界が、彼にはリアリティがないと感じられているが、私にはすごくリアルに思えるのである。今まさに生きている世界のように。ちなみに彼の1位はシュティフター『石さまざま』の中の「みかげ石」だった。私が高校時代に読んだときはその中の『水晶』しかなかったので、彼が一位と言うのなら読んでみたい。

ファンタジーの元となったギリシャ語の「ファンタシス」はアリストテレス『魂について』で重要な役割を果たしている。日本語訳は「表象」「心的表象」「表象する働き」と私の持っている本は全部違う訳語だ。ここに至ってこの書は急に難しくなった(と私には思われる)。感覚がなければ人は外界と接することはできない。たとえば目がなければ物の色や形状を認識できない。しかし目をつぶって、ある色や形状を思うことは可能である。だから、感覚は常に真であるが、多くの心的表象は偽なるものとして生じる。

ファンタジーは偽であり嘘の物語なので、子どもだましにすぎない、と思われているうえにファンタジーはディズニー状と感じられてきている。私はディズニーの世界が大嫌いだが、これは民話や童話の世界と似て非なる浅薄さが耐えられないからで、一種の近親憎悪かもしれない。

年老いた夫婦が、彼らの過去についてぼんやりした記憶しかもっていない。それを知ったら彼らは一緒にいることはできないかもれない。だが真実を知る以上に疑いも苦しいものである。ギリシャ神話で、エロース(愛)は可愛いプシュケー(魂)に語って去っていったではないか。「愛は疑いと一緒にくらすことはできない」と。エロースは愚かで可愛い魂を許し戻ってきたので、今や愛と魂は人間の中に仲良く住んでいるのだが。小説の中では、記憶が消えていくのは主人公たちだけではない、人はみな記憶があいまいになっていく。少し前のことはみな忘れていくのだ。だが記憶と真実が霧の中に隠されていたら人は幸せになれるのだろうか。「忘れられた巨人」は人間が記憶の動物であり、また記憶を失っていく動物であることを描いて感動的だった。そして人はどんなに愛する者どうしでも年老いて別々に死んでいく。

吉野弘に、初めて恋人を抱きしめた時に、重みがあるのかと驚くという詩がある。嘘の「表象」が出来上がってしまっているところへ「真なる」感覚が割り込んできたのだ。逆に想像していたよりも軽く感じたのが老いた親をおんぶしたときの啄木の「軽きに泣きて三歩あゆまず」だろう。お姫様も若者がお姫様だっこをしたら、信じられないほど軽い老婆にすぎなくなる。その落差こそ、ファンタシスの本質である。渋谷さんの低評価がシャクだったので「忘れられた巨人」の応援演説をしてみたが、哲学的言辞をろうしたので、よけいにドン引きされることだろう。ウンチクはいけない。さきほど、この前朗読会で話した内容を原稿にしてくれ、というのでまとめて送信したが、そのタイトルを「漢字を詩に編みこんでみた--ウンチクは身を滅ぼすもと?--」とした。タイトルでウケを狙っている自分が情けない。これから「実作2017」のために大塚の事務所にいく。3連チャンであるが、昨日は死んだように寝たので、今日は元気だ。
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