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2016年03月24日19:02

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「FOUJITAと日本人」

2015年10月31日に放送されたETV特集の録画を見る。

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FOUJITAとは藤田嗣治。
この番組は、今まで見られずにいた藤田を見せてくれた。

いろいろ感じることはあったのだが、メモとして残しておく。

彼が青春を送ったのは、エコール・ド・パリ(外国からパリに来た芸術家)と呼ばれた時代の美の都。
27歳で単身渡仏した翌年に、第一次世界大戦がはじまる。
日本からの送金が途絶え、三日間何も食べないこともあるような貧困生活に陥る。
しかしそんな時期に、ピカソのアトリエを訪ねて、キュビズムを知ったり、ルーブル美術館に毎日通って、ヨーロッパの古典絵画を学ぶ。
これは勉強になっただろうと思う。
身食を忘れて没頭する時間を青春期に持てたかどうかで、その後の成長は決まるように思える。
帰宅すると、ひたすら絵を描いていて、17時間描き続けていたこともあったというから、すごく充実した時間を送っていたようだ。

そして、その絵が認められたのは、パリに渡って8年目、35歳の時だった。
描いたのは裸婦(「ジュイ布のある裸婦」1922)で、あの独特の肌と細い筆の、他の人が描けなかった絵。

おかっぱ頭で独特の風貌の藤田は、社交界でも人気者になっていく。

fou fou (foujita)ーお調子者というあだ名がついた。

戦争で、それまでの価値観が崩れ、自由でデカダンスな雰囲気が沸き起こっていた。
当時のモンパルナスは、いつもお祭り騒ぎだった。
しかし、そんな乱痴気騒ぎのあとでも、藤田は必ず絵を描くことを、自らに課していた。

個人主義が根付き、フランス革命を経て、日本の社会とは違う、「自由」と、その背後に「孤独」があったこともとらえなければいけない。(小栗康平)

パリ・コミューンの価値も加味されるべきなのだろうか。

そんな藤田を日本の評論家は、「異国趣味で珍しがられているだけで、軽蔑されていても、尊敬はされていない」と酷評していた。

40歳くらいから、裸婦に変わるテーマを求め始めた。
そして帰国して、軍に協力し始める。

「アッツ島玉砕」の中に、ラファエロが原画を描いた「ミルウィウス橋の戦い」と同じようなポーズの場面がある。

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「ソロモン海域に於ける米兵の末路」(1943)も、ドラクロワの「ドン・ジュアンの難船」(1840)にヒントを得ている。
舟の中で飢えに苦しみ、次に食べられる人間をくじで決めたという話が、鮫を泳がせる海と対比されるというのだ。
藤田は、現実を見るのではなく、ヨーロッパの絵画をモデルにして戦争画を描けばいいんじゃないかという風に舵をきって行くのだという。

藤田の、木村莊八宛の手紙に、戦争画を描くことによって、新しいテーマを見出したという心境が書かれている。
しかしそれは、軍の意向に沿うものであり、戦意高揚の役割を果たすものであった。

軍からすれば、パリはもうドイツ軍の手に落ちた。
パリでもう絵は描けないんだから、日本で大東亜のことを考えてもらいたいというところだったろう。
しかし藤田は、「そうなの」みたいなことで、シラッと受け流していたんだろう(小栗康平)

日本軍全滅の大敗北だったのに、「玉砕」という言葉で美化してしまった「アッツ島玉砕」について。
「大デマゴークがあった。(それを拡散する一翼を担った)罪はあると思う。しかし、喜んで描いていたと思う」(小栗康平)
歴史画を描くという理想が、「大東亜の聖戦」と重なって、戦争画に向かった。(小栗康平)


※平山周吉の「戦争画リターンズ」第20回 坊主頭の藤田嗣治が描いたノモンハンのタテマエとホンネ で、以下のような話がされている。
ノモンハン事件を扱った「哈爾哈河畔之戦闘」についてだが、藤田を戦争翼賛の画家と断じることに疑問を投げかける内容だ。
この絵は、第六軍軍司令官だった荻洲立兵中将が予備役になってから、自分の退職金で藤田嗣治に依頼して描いて貰ったものだったそうだ。
引用が長くなるが、藤田の立場を正確に見るうえでの参考になるかと思うので、載せておく。

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この巨大な画は当時から注目されていたが、それ以上に現在関心を呼ぶのは、行方知らずとなったもう一枚の『哈爾哈河畔之戦闘』があったからである。
銀行に勤めるかたわら、徹底した資料探索で戦争画研究の基礎を固めた笹木繁男の研究に導かれながら紹介していこう
(笹木の研究は「LR」連載の「戦争画資料拾遺」と、「あいだ」連載の「藤田嗣治――その実像を求めて」に集大成されている。あまり目立たない媒体なので、探すのに一苦労であり、私もすべてを入手できていない。
笹木の研究が一冊の完本になることを願っている)。
 太平洋戦争がはじまって間もないある夕、私は招かれて、店のお客さんの一人、内務大臣の湯沢三千男さんなどとともに、麹町の藤田さんのアトリエにいった。
壁には二枚つづきの大作が掛けられてあった。ただ広大な草原に、見渡すかぎり死屍るいるいという酸鼻な場面――それはノモンハン事件のハルハ河戦闘直後の光景だった。
�爐海譴論鐐莎�録画にはちがいないが、軍の唱える「国民の士気を鼓舞する」記録画とはちょっと違う。その背後には戦争否定に通じる精神がかくされているのではないか。��
――いや、こうしたことは戦後もずっとのちになって思いかえした感想で、そのときは息をのむ凄惨な画面を前にして、みんな押しだまっていた。すると藤田さんが微笑を浮かべていった。
「みんなには分らないだろうが、これから五十年ぐらいたてばこの絵は博物館ものだよ」
フランスの藤田のもとには、日本からの情報が刻々にもたらされていたから、藤田にも『洋画商』は届けられたのではないか。
しかし、フジタの反応は残されていない。もう一枚のノモンハンを描いたとも、描かなかったとも。残念である。

 藤田の死の翌年、別の証言が現われる。
長谷川の目撃証言は「太平洋戦争が始まって間もない」時だったが、このたびの証言は、その半年から一年前、藤田の『哈爾哈河畔之戦闘』がまだアトリエに置かれていた昭和十六年春の時点の目撃証言である。
読売新聞の美術記者出身で、美術評論家の田中穣が書いた伝記『藤田嗣治』(新潮社)に出てくる。
小説的筆致であたかも見てきたかのようで、面白すぎるきらいがあるが、取材を元にしている。

 著名な『哈爾哈河畔之戦闘』は、日本軍兵士がソ連製の戦車を果敢に攻撃、鹵獲(ろかく)せんとしている勇ましい絵柄である。
それに引き換え、長谷川が見せられたもう一枚のノモンハンは死屍累々の戦場である。その死体はおそらく日本兵であろう。なんともスキャンダラスな対照ではないか。

 長谷川仁の『洋画商』が出版されたのは、東京オリンピックの行われた昭和三十九年(1964)である。藤田は健在である。
アメリカに持ち去られた戦争画の行方はまだわかっていない、という時期である。長谷川としては、まさかホラ話は書くまい。
どこからかこの画が出現することを期待して、回想録の冒頭に書いたのではないか。
同行者の湯沢三千男は前年に亡くなっているから証言者にならないが、湯沢は学生時代からの絵画のコレクターで、内務官僚から第一次東条英機内閣の内務大臣という要職をつとめ、戦後は参議院議員になった。
日動画廊の上得意である。

 この大作がまだフジタの手元にあったとき、現在、三彩社の社長でそのころ美術雑誌「アトリエ」の若い編集者だった藤本韶三(しょうぞう)は、フジタに呼ばれて麹町六番町を訪れたことがあった。
 晴れあがってはいたが、木枯が吹き荒れていた門前に列をなしてとめられた軍の車の多さが、まず若い編集者の目を見張らせた。
日常は、植え込まれた笹の葉ずれと、流れ落ちる懸樋の水がチロチロした音をたてる玄関先も、ものものしい警戒にあたる従卒たちで埋まっていた。
「どこの新聞か、遅れてくるやつがあるか」
 とカメラマンを連れた藤本は叱咤された。が、そのとき高官たちのうしろから呼ぶフジタの声に、危うく藤本は突き飛ばされそうだった危険から救われた。
軍の高官たちは、フジタが描きあげたばかりの『ハルハ河之戦闘』の図を見にきたのだった。
さながら嵐のようにフジタ家を吹き荒したかれらが帰ったあとのアトリエに通されて、若い編集者は初めてフジタの新作に対面した。
 マントルピースが切りこまれた壁の上段の、赤いビロードのカーテンをバックに、それはこころ憎いほど効果的に飾られていた。
「どうだ、いいだろう」と押しつけるようにフジタがいうのを聞きながら、藤本は、幾重にも雲の層をおいた大空の乳白色の効果に見ほれていた。
「軍のあほうどももこれには喜んでいたな。日本兵の勇敢さは、まさにこの絵のとおりだそうだ。これからの戦争画の鑑(かがみ)にするともいう」
「…………」
「それにしても、軍は横暴だよ。これだけ戦意を昂揚させる傑作をですよ、ただみたいな値で召しあげようというんだから。おれの相場を知らない。大フジタの国際相場をまるで知りませんよ」

 藤本は藤田の愛すべき欠陥である悪口癖がまた出たと閉口しながらも、「戦時下にありながらなお純粋芸術をまもりぬく美術ジャーナリズムへのフジタの身についたお世辞」でもあるその言葉を聞き流した。

「ところでね、見てもらいたいものがあるのよ」とフジタはあたりをはばかるようにした。
「軍には渡せない、ちょっとしたものがある」
「新作ですか、裸婦の?」と藤本は聞いた。
「まあ、見てもらおう。どんな裸が出てくるか、たっぷりと見てもらってから、あとで感想を聞かせてもらうよ」

 撮影は禁止、口外も厳禁と約束させられた二人に、「襟を正し、邪念を払い、よろしいかな」と、藤田は大時代なまじめさで声をかける。ついに御対面である。

「では、ご開帳といきましょう」
 そういったフジタは、歌舞伎の開幕につきもののあの拍子木の音を徐々に早く、歌うようにとなえながらゆっくりとカーテンを開いていった。
 そこに、藤本は、恐るべきものを見た。
 つい先刻まで、軍の高官たちがうつつをぬかしていた『ハルハ河之戦闘』とカーテン一枚をへだてただけの場所に、同じフジタが描いたとは決して思いも及ばないもう一つの『ハルハ河之戦闘』の図がかくされていたとは?
 画面全体をおおうように、そこには赤黒く燃える焔が描かれていた。
 その下に日本兵の屍が累々と横たわっていた。半裸体になった腹や足には、蠅がとまり蛆虫がはいだしているのさえ見えるその上を、ソ連軍の戦車が冷酷無惨に踏みにじる図だ。
 二人は息をつめた。生理的にやりきれなかった。思わず目をそむけずにはいられなかった藤本は、平安末に描かれたあの『地獄草紙』も、この悲惨残酷にくらべればはるかに救いがあると思った。
「どうだ、傑作だろう」とフジタはにやりとした。「これだけリアリズムのかけるおれの腕をわかってくれればね、それでいいんですよ」
「…………」
「すくなくとも、君らだけには、わかっていてもらいたくてね」
 藤本にはことばもなかった。
「さあ、しまうよ」とフジタはいった。「人目につかないうちに、早くかくれていただかないと、あぶない、あぶない」
 ふたたび歌うように急速調な拍子木の音をつぶやきながら、人にはさわらせられぬ大切な品を、そのくせちらりとだけ見せておいて得意がる子供よりもっと単純な得意さで、フジタはカーテンをしめていった。
 そのときだった。藤本は得意なフジタの横顔にギクリとした。そこには無邪気そのものと、神を恐れぬふてぶてしさとが、天使と悪魔とが、二つながら同じ顔にのぞいているのに。

 以上引用した田中穣の『藤田嗣治』は小説とみなされたのか、直木賞の候補になっている。
ただしこの引用部分は藤本韶三の証言に基づいている。『日本の戦争画』の田中日佐夫も、藤本から同様の話を聞いたと書いている。
ただしカメラマンは抜きで藤本ひとりだった。田中も後年出した『評伝藤田嗣治』(芸術新聞社)では、カメラマンが帰った後だった、と訂正している。

 田中穣は、『藤田嗣治』の装丁と題字を担当した宮本三郎もまた「その作品を麹町のフジタのアトリエで見せられて肝を冷やしたことがあった」とも書いている。
これだけ目撃者が出揃うと、もう一枚の存在はほぼ確実であろう。長谷川仁は画商らしく、画の出現を期待し、田中穣は「みずからの手で焼却せねばならなかったのか」とその絵の運命を推測している。

 それから三十年後に、さらなる証言が現われる。
一九九九年九月二十三日に放送された「NHKスペシャル空白の自伝・藤田嗣治」に、画の依頼主だった荻洲立兵(おぎす・たつへい)中将の四男・照之が登場し、確かに荻洲家にあったが、戦争中に行方不明になったと語ったのである。
私はこの番組を見ていないが、さいわい番組のディレクターだった近藤史人の大宅壮一ノンフィクション賞受賞作『藤田嗣治「異邦人」の肖像』(講談社、2002)に証言は再録されている。

 もう一枚の秘密を最初に公にしたのは、銀座の日動画廊の主・長谷川仁である。
長谷川の回想録『洋画商』(日動画廊発売・美術出版社発行)は「藤田嗣治さんのこと」という章が巻頭に置かれている。
昭和八年(1933)に知り合い、翌年二月にはさっそく藤田嗣治画伯帰朝第一回展を日動画廊で開いている。
以後、毎年のように個展は開かれる。
藤田とは公私にわたるつきあいとなり、夫婦の揉め事には、長谷川夫人の林子が仲裁役で駆けつける。
藤田が戦争画の取材で外地に出かける時には、夫婦で東京駅まで見送りに行く。
「将官待遇の藤田さんは、軍服そっくりないでたちで颯爽と汽車に乗りこむ。だが、そこになにか�猜実發瓦辰貝瓩里茲Δ蔽婬い箸發い┐襪佞鵑さい燭世茲Δ里癲△い�にも藤田さんらしかった」。
この後、問題のもう一枚の『哈爾哈河畔之戦闘』が出現する。
 その絵は残念ながら終戦の混乱の中で失われてしまったが、しばらく荻洲家に飾られていたという。(略)
 若い照之の心に鮮烈な印象を焼きつけられていたその絵には、すさまじい光景が描かれていた。
 巨大なソ連の戦車から絶え間なく銃弾が降り注いでいる。阿鼻叫喚の声を上げる日本兵。
死体は累々と積み重なっている。その死体の山を踏みつぶしていくソ連の戦車……。
凄惨きわまりない戦争の実像である。それは、聖戦美術展に出品したものとは全く異質な、もう一枚の「哈爾哈河畔之戦闘」であった。
 当時まだ十代だった照之は、父親の荻洲中将から絵の制作の詳しい経緯を聞かされていたわけではない。
だが、自宅を訪ねてきた藤田と父親が二人だけで話し込む姿を、よく目にしていたという。(略)
「父が、たくさんの命を失わせてしまったと嘆いていたことを強烈に覚えています。父と藤田は、二人で何か一緒に表現したかったのではないかと思います」


 長谷川仁の回想も、田中穣の記述も、荻洲照之の証言も、その絵柄についてはほぼ一致する。
ソ連戦車に踏みつぶされる日本兵の阿鼻叫喚。死屍累々。
縦140センチ横448センチという巨大な絵画を置いておけるほどのスペースが新宿河田町の荻洲家にあったのかどうかに一抹の疑問があるが、藤田が描いたことは間違いないであろう。
その画がいつまで藤田の元にあり、いつから荻洲家に移ったのか。
順当に考えれば、昭和十九年の終わりに神奈川県の藤野に疎開する頃であろうか。
そんな危険な画を、おいそれと荻洲中将に託すとは思えないからである。

 藤田がなぜ『哈爾哈河畔之戦闘』を二枚描かなければならなかったのか。
笹木繁男は以下のように推論している(「藤田嗣治 戦争画の二面性」読売新聞2000年8月9日夕刊)。
「戦争画に携わる初期から敗戦に至るまで、藤田の戦争画の制作姿勢には一貫して「タテマエ」と「ホンネ」との二面性があったように私には思える。
それは彼が絵描きとして戦争画を絵画表現のひとつのジャンルとして考えたことと、スポンサーである軍の戦争画活用との妥協の産物であったことから来ているのかもしれない」。
タテマエが『哈爾哈河畔之戦闘』となり、ホンネがカーテンの奥のもう一枚である。
戦局が順調に推移するうちは、タテマエの作品を描きつづける。昭和十八年五月、アッツ島玉砕。
この報道は国民全体に戦局の逆転を告げるものであった。タテマエではもう持たない。
今こそ、ホンネを堂々と描く時ではないか。
「藤田は賭けに出た」と笹木は推理するのである。

 私はこの笹木の推理に同意するのだが、ここで、もう少し『哈爾哈河畔之戦闘』に留まってみたい。
荻洲中将をはじめとする軍当局側から藤田嗣治がどう見えていたかを確認しておきたいからだ。
『哈爾哈河畔之戦闘』は戦争画制作の舞台裏がよく見渡せる稀有なケースなのである。

「藤田嗣治「哈爾哈河畔之戦闘」制作を中心に」というサブタイトルのついた、水谷英志の「荻洲立兵陸軍中将とノモンハン戦没者への慰霊」という研究が「軍事史学」という伝統ある学会誌に載った(187号、2012年12月)。
絵画研究ではなく、慰霊と顕彰をめぐる研究である。
忘れられがちな事実なのだが、『哈爾哈河畔之戦闘』は靖國神社の遊就館に奉納され、展示された絵画なのである。
「絵画は一九四一年初夏までに完成し、六月に天覧に供せられて、七月の第二回聖戦美術展に展示された。
陸軍は他に作戦記録画一六点を公開しているが、他の絵が御府献納用につくられていたのに比べ、藤田の絵は最初から、靖國神社の遊就館へ寄贈されることが決まっていた」。
記録は勿論だが、記録よりもさらに顕彰にこそ重きをおいて制作されねばならなかったのである。

 藤田は荻洲たち陸軍高官から過大な期待を寄せられていたとおぼしい。それも、うっとうしいと思えるほどの。



戦後、藤田は美術界にあって、戦意を煽り、多くの日本人を戦地に赴かせたとして強い批判を浴びる。
宮田重雄が嚆矢とされるが、自分たちのリーダーとして戦争画を奨励した藤田を批判したのだ。
藤田は「絵を描くことは、戦意高揚や反戦とはかかわりない。ただ戦争画によって自らの絵を確立しようとしただけなのだ」と考えていた。
1949年63歳の藤田は、ついに日本に嫌気がさして、パリに移住し、フランス国籍を取って、ランスで没した。

※これは、一つの逃げ道であったのだと思う。
藤田自身にとってもだが、日本の美術界にとってもだ。
みんな戦争画を描いていたのだ。
だから、藤田をその象徴として批判し、他の画家たちは、戦後も絵を描き続けて生きて行った。
政治の面で、A級戦犯に罪をかぶせて、日本人が立ち直って行ったのと同じだ。
彼らだけが悪いわけではないのだが、それで世界が納得し、国際社会に日本は復帰したのだ。
悪人は、悪人でありつづけなければ困る。
原田甲斐を忠臣だったと証明する作業は、歴史家や山本周五郎のような小説家の仕事だ。

※こうした処世術を、宮田重雄や土方定一のような個人の問題とする「赤い美術界」的な解釈は簡単だが、それに同調するような「空気」があったから、彼らもそれができたのだろうと思う。

「FOUJITA」という映画を撮った小栗康平は、藤田と対比させるために高村光太郎を登場させている。
明治の青年たちがいかに西洋文明にあこがれたのか、そしてその青年が戦争が始まると「大翼賛頌」を書いて国粋主義に酔ったのか。
終戦後、高村光太郎は、「特殊国の特殊な環境の中にあって、一つの愚劣の典型だった」と反省し、岩手の山奥の質素な小屋にこもることになる。
そんな高村を、藤田はシラケた目で見ていたと、小栗は解釈する。

※『第百階級』などという階級闘争を意識した詩集を書いてデビューした、共産主義のシンパだった草野心平が、詩集『大白道』(昭和19年4月刊)では、戦争をあおる詩を書いているように、ほとんどの日本人が高村光太郎だった。

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小栗は、高村と藤田の対比の中で、日本の近代というものが透けて見えるという。

「日本が近代化を遂げなきゃいけない。そのためには、かりそめであっても、、ヨーロッパ的な「国民国家」というものを造らなきゃいけない。制度としても。でも国民には「国民」ということに馴染もなく統合性もないから「臣民」であると。
それが、あれ程まで一気に、「玉砕」を認めるところまで、なだれ込んで行って、その裏返しとして、敗戦後の「一億総懺悔」だったりですね、結局は変わらずに、共同体と個との関係とか、戦争に結び付いて行ったヨーロッパの近代というものが、我々の今の社会にとって、どういう姿を持っているかという事が問われないまま、来てるわけで、2015年の今でも、同じですよね。
だけどちょっと違うんだ、藤田は。戦後批判された時に、一身に責任を背負わされた時に、さしてひるむこともなくね、日本を去って、或いは捨てるというような形でですね、自分の態度をこう、表わしたという。
それは、ヨーロッパの歴然とした「自由」と「孤独」というものを、或いはその背後にある、デカダンスというものも、エコール・ド・パリで経験して、言ってみれば、現場叩き上げ?のヨーロッパ近代(を知る人間)。それは他にはいないわね。藤田のようにはね」
(小栗康平)

フランスに帰化し、洗礼を受けて、レオナール・フジタとなってランスで没した後、藤田の遺族が、2千点を追える遺品をランス市に寄贈した。

ネットでは端野萬造氏というブロガーの記事が再録されていて、以下のようにある。、

そして、日本の美術界では相変わらず藤田批判が語りつづけられた。
 たとえば藤田の死の八年後、一九七六年の「美術クラブ」にはこんな記事が掲載されている。

<政治のことは、一向知りませんと言いながら、戦争にでもなると、それが汚い戦争であろうと、向こう鉢巻をして罪のない人民を死地にかりたてる作品を描く。藤田嗣治はそんなことをしておいて、敗戦したら日本人国籍を抜いて、平気でフランス人に化ける。こんなものを「芸術家」といえるのであろうか。まことに恥ずかしいことである>
 これが日本での典型的な藤田のとらえかただった。

1966年80歳の時、ランス市に礼拝堂(ノートルダム・ド・ラ・ペ 平和の聖母礼拝堂)を建てることになり、それを手掛けることが最後の大仕事になった。
出来た礼拝堂に自らの遺骸を納め、安らかに眠ることを願って、設計から内装まで、全てを藤田が手掛け、製作に取り掛かった。
そして完成した直後の1968年、81歳でその生涯を閉じた。
礼拝堂の壁には、最後の自画像も描かれている。

「20世紀の荒波に翻弄されながら、描くことを貫いた生涯でした」
とのナレーションで、番組は結ばれていた。

藤田嗣治を見直すことのできた番組で、わたしには、よかったと思う。
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