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2016年03月09日22:03

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松岡榮志教授の最終講義(4)

(続き)

※いいところを伸ばして不要なものを切るというのは、『唐宋八家文』に載る「種樹郭橐駝傳(樹(き)を種(う)うる郭橐駝が伝)」という柳宗元の文でも言っていることだ。
してみると、言うは易く行うは難いことなのだろう。
しかし、このような素晴らしい先生からこんなにたくさんのことを学べた松岡さんは幸せな人間だった。
これだけ語らせるには、聞く力というものも備わっていなければならない。
聞く力とは、相手の話を理解し、適当な質問ができる力だろう。
そのためには、自分自身を磨かなければならない。
それはすなわち、先生によって啓発され、自学していくという力にもつながって行ったのだろう。

以下は、若井先生を離れて、東京教育大学に入ってからの話。
故人なのでと学者評を話されたが、弟子筋には気を悪くする方もおられるかもしれないので、詳しくは書かないことにする。

昭和46年4月、松岡さんは東京教育大学漢文学専攻に入学する。
日中国交回復の1年前のことだ。
第一外国語は中国語。
「学者を作る大学」だと言われ、漢文科は(漢文の先生や研究者を養成するのであるから)、文学、哲学、語学を少人数で鍛えることになっていて、1年生から専門の授業をとることが許されていた。
彼は、「とりにくい単位はみんな4年の時とりました」と言っていたが、専門の授業が聞けたので、学問への興味が更にわいてきたのだろう。

「先師のひとこと」

鈴木修次(漢文学助教授)

「六朝文学論」の講義を受けたが、この先生に出会ったから古典をやるようになったと言っていた。

※松岡さんの専攻は陶淵明なのである。
陶淵明に関する論文は、私の知る限りほとんど書いてないと思うが(笑)
最初の授業で、竹に関する論文の盗用を、鈴木先生が憤っておられたという話を別の機会に聞いた。
孟宗竹のような太い竹が日本には江戸時代の初めくらいまで無かったというのだ。
かぐや姫はどうなのだという疑問が湧いてくると思うが、あれはもっと細い竹だったという。
竹を切っただけの花入れを利休が作っているが、あれは輸入された竹を使ったのではないかというような話。
本題からそれるので詳しくは書かない。
鈴木先生は教育大の筑波移転に反対していたので教授にしてもらえなかった。
こういう反骨精神を持った人間が、彼は好きだったようだ。
若井先生のDNAを引き継いでいたという事か。

「学問は一代限りだ」

「鈴木修次と呼びなさい」
※発表していた学生が、引用書に、目の前にいる鈴木修次の著書を挙げたのだが、遠慮して「鈴木修次先生」と言ったら、怒られたという話。

益田勝実(法政大学教授)

『万葉集』購読

2〜3首しか読めなかったが、素晴らしい授業だった。

尾形仂(国文科教授)

松尾芭蕉『幻住庵記』演習

「下調べして来ない者は、教室から出て行け」
と言ったんだそうだ。
尾形先生自身は、三か月前から下調べして行ったとか。

小松英雄(国文科教授)

「国語学講義」

「学問上では、先生も生徒もありません」

長谷川寛(東京外語大教授)

「私は職人ですから、毎回テストをします」
「中国人は、清潔好きですから、タオルを2枚使います。顔をふくのと、体をふくものです」

陳東海(東京外語大、外国人教授)

「中国人でも、貧しければタオルは一枚しか使わない。一人の話だけで信じてはいけない」

※藤堂明保先生と吉川幸次郎先生については、神みたいな存在だったりするので、評は書かないことにする。
 もちろん、面白い話はあるのだが。
 一つだけ書いておこうか。

吉川幸次郎先生とは一度だけ逢って、話したことがあったそうだ。
そのとき吉川先生がおっしゃるには
「私は、京大人文研のすべての本に、指紋をつけました」
と言った。
これが、「全部読みました」と言ったら「うそだろ〜」になるけど、指紋をつけたならあり得るかなと思える。
「先生ってうまいこと言うな〜と思いましたよ」
と、松岡さんはおっしゃっていた。

※中国の学者との交流の話が続くが、大学者ではあるものの門外漢には馬馬虎虎(マーマフーフー)だろうから、省略。
ちょっと変わったところでは、愛新覚羅溥傑という、ラストエンペラーの弟とも交流があったらしい。

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