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2015年10月18日12:33

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決心して枝を離れる

落葉の季節、真っ先に葉がなくなるのが桜で、枝に色づいたわずかの葉がしがみついているこのごろである。ところでだいぶ前から疑問がひとつあった。桜は葉があると花を咲かせないのだろうか。梅も桜も枝しかないところに花が咲き、後から葉がやってくるのはわかる。その前が冬だったからだ。では十月桜はどうか。夏の間じゅう緑でふさふさだったのに、やはり枝しかない風景の中に咲きたいのだろうか。となれば、夏が終わるとみるや一刻も早く葉を散らせておかねばならない。

今日の新聞の書評欄に『植物はすごい 七不思議篇』(田中修著)が二紙で取り上げられていた。それを読んでいたらこんなところがあった。「桜の花の蕾は前年の七、八月にはできているのに<越冬芽>という固い芽の中に包み込まれて秋には咲かない仕掛けなのだ。秋に咲くと、やがて来る冬の寒さのためにタネがつくられない。つまり子孫が残らなくなる。では、サクラは秋の初めに冬がくるのがわかるのか。葉が夜の長さをはかることができるのでわかる」。では、今咲いている十月桜はそのしくみが壊れた種なのであろうか。私の見る木では春の満開のサクラとは違って、まばらに咲いている。同書には朝顔はなぜ朝咲くのか、という章もあるらしく、それは暗闇を測ることによってだという。前日の夕方に日が落ちると体内時計が動き始めて10時間後に咲く。暗闇でも咲くのだそうだ。植物には夜や暗闇を測る時限装置が仕掛けられていて、それが決められたきっかけにより作動を始めると聞くと、太陽や光ばかりを讃える平板な理想主義じゃだめだなと思う。

桜つながりで、今年出た『冊』同人の同人の詩集から私の好きな作品を。

  花は
  決心して枝を離れる
  いくつも
  いくつもの決心  (「春に寄せて」から----中村明美詩集『ひかりの方へ』所収)

この詩は高層ビルからの投身自殺を暗示したものだが、それを知らずにこの部分だけ読んでも、いいなあと思う。夜を数え終わって咲いた花たちが散る。決心して。
花の散る時、音はしないが、葉が落ちる時は音を立てる。長いあいだ気付かずにいたが、静かな生活をしていて落葉の中を歩むと、その音はよく響いてくる。いくつも、いくつも、終わりがないようにそれは続く。葉の枝を離れる決心は沈黙のなかで行なわれるが、地に到達したとき、音をたててしまうのだ。

  さくらを見に行こうよ
  すぐ近くだから

  何度誘っても
  行かない むかし見たから
  と繰り返す    (「花吹雪」から----清野裕子詩集『to coda』所収)

老いた母の言葉は衝撃的だった。私たちは桜を毎年見て、何十年とそれを見ているのにまた見たがる。それに対して「むかし見たから」もう見なくてもいい、という人がいるということに虚をつかれたことのほかに、そのようにして家を出るのをいとう人の気持はどんなものなのか想像することへの恐れのようなものもあるかもしれない。娘はその母に「みごとな枝ぶりの古木の桜/これを母に見せたかった」と思う。同じ桜の木であっても毎年違った思い出が積み重ねられていくことを無意識のうちに信じている生と、それを放棄したかのような生と。母が「むかし見た」時、誰と一緒だったかを作者は思う。自分が一緒にいた記憶がないからだ。何度見てもまた見たい桜とは、誰とともにこの世にあったのかを感じることが残されている心と目のためにあるのだろう。あたりまえのことなのにいつもは気付かない。気付けば切ない。


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