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2015年09月06日00:35

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「玄奘」展とカルチャー講座(1)

龍谷ミュージアムで「玄奘」展が開かれていますが、それに連動して朝日カルチャーセンターで講座がありました。
講師は龍谷ミュージアム前館長で龍谷大学教授の入澤崇先生。3月の旅順博物館ツアーで講師として参加予定だったのが、館長の退任と引き継ぎ業務のため行けなくなりお会いできなかった先生です。
タイトルはベタに「玄奘三蔵とシルクロード」です。

まずは玄奘三蔵とは、「西遊記」の三蔵法師のモデルで…というところから。一般向けにはまずそこから入らないとダメなんですね。
そして、実際の玄奘のことを知るための資料で日本で入手可能なものとして

「大唐大慈恩寺三蔵法師伝」(「慈恩伝」)
「続高僧伝」巻第四「玄奘伝」(「新国訳大蔵経 続高僧伝」より)
「大唐西域記」

の三つがあります。

玄奘は子どもの時から賢くて、13歳で得度し、ひたすら仏教を学びます。仏教も学問の一種ですから専門分野などがあります。玄奘の専門は唯識論です。そして唯識論に関して疑問に思うことを調べたいと思うのですが、なかなか答えてくれる師がいません。そのため、玄奘は中国にいた時から各地を旅して師となる人を探していました。
そうして結局自分の求める答えが求められず、天竺へ行ってもとの経典を探そうと決意します。

そして目的地として、ガンダーラはこのころ衰退しているので、ナーランダーを目指すことにしましたが、その情報は一体どこから得たかと言うと。
当時インド僧のプラバーカラミトラと言う人がいて、その人から知ったという可能性があることが指摘されているそうです。二人が接触したという証拠はありませんが、プラバーカラミトラからナーランダーにシーラバトラという高僧がいることを聞いた可能性があります。さらにプラバーカラミトラが中国までたどってきた道を逆にたどることで、天竺へのルートを知った可能性があります。

玄奘は「仏法で世を照らす」という目標を持ち、単に仏教を学びに行くだけではなく中国に仏教の教えを持ち帰り広めたいという強い意志がありました。ですから必ずインドにたどり着き、そして帰って来なくてはならない。そのためには冒険ではなく、できるだけ安全確実なルートを取る必要があります。そしてプラバーカラミトラがたどったという突厥経由のルートがいいらしい、と聞いたのではないか。

ここで、パワーポイントの映像ですが、藤田美術館所蔵の「玄奘三蔵絵」が映し出されます。これは「慈恩伝」の記述に忠実に絵に描き著したものです。鎌倉時代の日本で描かれたため現地の知識がなくて、絵そのものはすべて日本風になっていますが、慈恩伝をたどるのに大変便利なもの。

玄奘は当初はハミまで来て、それから天山の北側を通って突厥をめざすつもりでした。しかし現状はその当時から学識豊かな僧侶として知れ渡っていたため、高昌王国から是非にと乞われてそちらへ赴くことになります。
その手前で玄奘は大神から叱咤される夢を見ます。これがのちの深沙神の原形と言われます。深沙神はさらに後に「西遊記」の沙悟浄につながって行きます。
さて、高昌に行った玄奘が高昌王・麴文泰から手厚いもてなしを受けたのは有名ですが、「玄奘三蔵絵」では麴文泰が四つん這いになって、玄奘が説法台に登るための踏み台となった場面が描かれています。

実はこれにはもとネタがあるのでは…という説が。
この四つん這いになった姿が、本生譚の「燃燈仏授記」によく似ているのです。
本生譚は釈迦の前世の物語ですが、その前世の一つに、燃燈仏という偉い仏が来た時、ぬかるみがあったのでそこにひれ伏して自分の髪を敷き詰めて仏の足元が汚れないようにしたという話があります。この話はよくいろいろな絵に描かれていて、そのひれ伏した姿が麴文泰によく似ているというのです。
(ここで例に挙げられたのが、龍谷ミュージアムで再現されているベゼクリクの壁画の燃燈仏の場面だったので、あとで確認しに行こうと思いました)。

ともかく、突厥へ向かうつもりだった玄奘には、かえって高昌王国に来たことは幸いでした。麴文泰は通り道の各国に紹介状を書き、もちろん突厥の可汗にも紹介状を書き、路銀、従者、通訳などをつけて盛大に送り出してくれました。

そうして亀茲国、突厥へと行きますが、絵巻の絵はどこも日本風と言うか唐風。
この時の突厥の可汗は統葉護(トンヤブク)で、長男の嫁が麴文泰の妹。その長男はクンドゥズ(活国)にいますので、このあとクンドゥズへ。
さらにそこからガンダーラやバーミアンへ行きます。

入澤先生はアフガニスタンの仏教遺跡の調査をされたことがあって、仏教の西の端を探って来たそうです。先生がb撮影した写真も映し出されます。アフガニスタンの有名な美しいバンデ・アミール湖から川が流れていてバルフ川という川になるのですが、この川沿いに交易ルートがあったのだろう、そこをたどるように仏教も伝わっていたのだろうと。

ナガラハラでは燃燈仏授記があったという場所を訪れます。
捨身飼虎が行われた場所もあるそうな…。
ガンダーラの衰退ぶりも実際に見ます。

ということで、インドにまで来たところで講義は終了。
あとは西ウイグル王国での玄奘崇拝の痕跡を示す壁画。
敦煌の東千仏洞の水月観音図に見える、玄奘と思われる僧侶が猿の従者を連れている図があり、「西遊記」の誕生のもとになる古い作例だということ。

講義は以上で終わり、あとは学芸員の解説によって展示を見に行きます。
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