『百回稽古』(平成12年7月29日初版発行 体育とスポーツ出版社)は、持田盛二範士十段と小川忠太郎範士九段の稽古を中心に小川忠太郎先生が書かれたメモで、昭和二十九年十一月十六日から昭和三十六年十一月五日まで、百回にわたって行われた稽古に関するもの。
小川先生五十三歳、持田先生六十九歳から、小川先生六十歳、持田先生七十六歳に至る七年間で、年齢的にも剣道の質が変わる時期の軌跡を辿れ、大変興味深い読み物となっている。
元々雑誌「剣道時代」に平成四年十月から平成九年十一月まで連載されていたものを加筆訂正して出版したもので、注は「剣道時代」の小澤誠編集局長。亡くなられたのちは張替裕編集長が引き継いで出版された。
私が「剣道時代」の仕事を受けていた頃、張替さんはまだ現役で、一緒に出版剣道大会にも出たことがある。
この本を買ったのもそんな時期だったが、張替さん自身は持田先生や小川先生にこの稽古について話を伺ったことはなかったそうだ。
拾い読みをして注が大変面白かったので買ったのだが、当時の私には腰を落ち着けて読む時間がなかった。
今回本文を読んでみて、やはり今読んで正解だったのかなと思った。
ただ、小川先生自身は後半精神論が先行してしまったように感じた。
二十九歳で臨済正宗釈宗活老師に参禅し、五十一歳の時から人間禅教団の一等布教師となり、人間禅教団の立田英山老師より無得庵の庵号を許されるに至った小川先生であるから、無理からぬことであったのかもしれないと想像していたのだが、私の未熟さから来る誤解かもしれない。
小川先生はこの間に一刀流の稽古もされ、笹森順造小野派一刀流宗家より免許皆伝を受けていて、本文中でも一刀流の形が随所に出てくる。
わたしが一刀流を教わった二人の師のうち、日本経済新聞社に勤務されていた阿部先生は人間禅教団にも関係していて、「なんだか怪しい新興宗教みたいに思うかもしれないけど、座禅会みたいなもんだったよ」と話しておられた。
座禅は中世の武家に重んじられたが、私自身は丹田に気を下す程度以上の効果を感じていない。
ただ、技より気を重視していくべきだという小川先生の主張には同意したいと思っている。
以下、本文より、気になった文を抜き書きしておこう。
第三回の稽古に於て一足一刀にて小手を打たれたのを先生に質問す。
「あれは私が技を出そうとして気が凝って、右手が固くなった所を打たれたのですか」
先生曰く「互いに攻め合っている時、あなたの気の起りを打ったのです。
打とうとして切先が一寸上がった所を打ったのです。
あそこを打つのはむつかしい。助教にあそこを打たれますか」
余「助教には打たれません。助教が小手を打とうとすれば、自分は面に伸びてしまいます」
先生「あそこは打とうと思っては打てぬ。助教は打とうとするから打てない。
打とうと思わないで、気の起こりを打つのだからむつかしい」
剣道は同じ相手でも何時も同じには使えぬ。
切先、間合、気合等をよくよく工夫してやると上達する。
考えなしにやってはだめ。
昔から言われているが、相手に打たれたのは筋が通っていれば、軽くも参ったと言い、
自分のは十分でも不十分という考え。
こういう謙虚な心構えでやると剣道は上達する。又こういう事が無言の教育になる。
相手に打たれるのは自分の弱点を教えてもらうのだから有り難い事だ。
↑この言葉には註がついている。
※ 持田先生は相手から一本打たれると、二度目には決してそこを打たせなかった。
自分の非を打って教えてもらったのであるから、感謝してその欠点をなおして、
完全なものに近づいてゆくというのが先生の修行法である。
(後略)
四回目
出はなを見るには、先ず気剣体一致。即ち腹力充実、先生に乗っていなければ見えぬ。
これがむつかしいのだ。
森島君が稽古に来た(之は妙義で八月に稽古して以来、四ヶ月振り也)
両刃交鋒、彼は身長が高く見える。
大正眼の手の内にて切先を合わせ、彼の出はなと見て正面を打つも、彼が手を伸ばすと突に当る。
相打となる。
この技を数本出したが、彼長身の為、彼の有利な間合なる為、皆相打(突の方がよい)。
小手を打たる。彼得意の小手より面も来る。以上、彼の間合也。即ち遠間也。
最後に余は切先を伸ばして彼の目を突き中段に帰り、柔らかく四・五寸間をつめる。
こうなると余の間合也。
彼が技を起こさんとする機を感じ、思わず真面に出る。立派に一本当る。
又同じつめ方にて間をつめる。
彼が面に来るのを、なやして一歩引いて(思わず)胴を打つ。之は一本となる。
之で終り。
評ー結局、剣道は気と間が本だ。之で勝てば技は自ら生まるる也。
持田先生には気と間で先ず勝てないのだ。
↑以下私見&注。
※森島君とは森島健男(もりしまたてお)先生のこと。
現在、野間道場の顧問で、防具を着けて道場に立つことはないが、時々来られて
稽古を御覧になり、指導されたり訓話をしてくださる。
旧道場で記念にと思い写真撮影をお願いしたら快く受けてくださり、全日本選手権の時に
額に入れてお持ちしたらお礼の葉書をいただいた。
それ以来、師範室でいろいろな話を伺う機会ができて大変楽しかったのだが、最近はご高齢の故か
道場に来られなくなった。
『百回稽古』の注でこんなことを語っておられた。
「小川先生は打った打たれたの剣道ではなく、何ものにも心を動かさない正念相続の剣道。
また下手の者に対してあれほど一生懸命、真心を持って指導してくれた先生はいない。
先生はもともと器用なほうではなかったが、私は晩年になっても先生が打てなかった。
打つところがない。先生が八十五歳くらいのとき警視庁で稽古をお願いしたことがあるが、
とうとう一本も打てない。そこで、もうあまりにも長くなるから、この辺でやめようと思って
パッと退った。すると『なぜ、そこで退るか』と大きな声で叱られた。他の人が見たら“森島は
どうして打てないんだろう”と思うかもしれないが、ただ打った打たれたの勝ち負けならいくらでも
打てる。しかしそれは本当に自分が納得できるものではない。相手の気持ちが動いたところを
打つのが本当の一本だが、小川先生のように気持が動かなければ打つところはない。
今はこういうお手本になるような剣道をする先生がいないが、私は小川先生に指導を受けることができ、
本当に有難いと思っている」
妙義は妙義道場のこと。
持田先生との稽古のほとんどがここで行われた。
妙義道場は、講談社の社員だった長井武雄が終戦後に独立して起こした妙義出版社が持っていた道場で、
野間道場にほど近い文京区小日向にあった。
野間道場について「ここに人が集まるようになったのはこの人(持田先生)がいたからだ」と森島先生が
話しておられたが、当時の野間道場はGHQによる武道禁止もあり、戦災を受けた講談社社員などの住まいや倉庫
として使われていて稽古ができなかった。
妙義道場は妙義出版社の経営不振により昭和三十七年に閉鎖されるが、多くの名剣士が稽古したことで知られる。
持田先生は、妙義道場が閉鎖された年から野間道場の師範として指導に当たられることになる。
両刃交鋒(りょうじんこうぼう)は触刃から交刃の間合だが、禅の公案から来ているとのこと。
注にはこうある。
「両刃鋒(ほこさき)を交えて避(さ)くることを須(もち)ひず、好手還(かえ)って火裏(かり)の
蓮(れん)に同じ、宛然(えんぜん)自(おもずか)ら衝天(しょうてん)の気あり」という句がある。
これは禅の公案だが、山岡鉄舟はこれを解決して無刀流を発明した。
これは両刃交鋒、つまり交刃の間においては千鍛万錬した人は意気がますます盛んになる。
これを火裏の蓮(火の中へ物を入れると草木はみなしおれてしまうが、蓮(はす)の花だけはしおれずに
色も匂いもますます強くなる)という。
このたとえ通り、交刃になると鍛え抜いた人は衝天の気となり、そうでない人は青菜に塩となる。
大正眼は剣道では一般的でないが、一刀流では使う構え方。
上段に挙げた小手を打って大正眼となった所から正眼に戻る途中反撃の面を打ってきたら、それを切り落とすという形があるので。
しかし、注の書き方はなんとも大仰で、だいぶ思い入れがあるようだ。
こんな内容。↓引用は『中庸』冒頭にあるもの。
中庸に「天命之を性といい、性に率(したが)う之を道という」と大道を定義している。
大道を天命・性・道の三つに分けてあるが、これは体(本体)・相(すがた)・用(はたらき)であり、
剣道に当てはめれば心法・身法・刀法の三つの位となる。
本体たる心法(別の言葉で生命力と言ってもよいが)は宇宙一切の現象の根本にある唯一絶対のものである。
孟子はこれを名付けて「浩然之気」と言い、山岡鉄舟は「浩然之気は天地の間に塞(ふさが)ると云ふは
則ち無敵の至極である」と言っている。
この本体を悟得してはじめて剣は道に通じ、人間形成の道になるのである。
なんとも仰々しい文で、現象を解釈しているに過ぎない中庸や孟子の言辞を無理やり剣道に
当てはめようとしているようにしか思えないのだが、山岡鉄舟などを持ち出すと真理らしく聞こえるようだ。
↓こうも書いているのだが、この方がわかりやすいかも。
相手に負けまいとか、打ってやろうなどという血気、客気は浩然之気とは似て非なるもの。
この稽古で森島先生が使っているのは突きというより面に打ち込んでくる小川先生を押しとどめている竹刀使いに
すぎない。
返し技が出せないのは未熟なせいかもしれないが、「あんた中心をとってもいないのに打ち込んできたって
面は取れませんよ」と諭しているようなもの。
好いも悪いもない。機会でないところで打っているに過ぎない。
それが、自分の間まで入って充分になってから出した面は一本になる。
当然と言えるがそれがなかなか出せないのが剣道。
森島先生が打って来た面は引き出された、或いは無理に攻めて出た面で、当然のことながら刷り上げ胴で
返された。
ここでも、小川先生の攻めが無ければ森島先生は打ちに来ないだろう。
自分なら、刷り上げ面はまだ未熟で、抜き胴が出せて充分だと思えたろうが、森島先生も現役で脂の乗り切った時期であるから
これがいっぱいだったのかもしれない。
剣道は先ず気分が充実せねばだめ。浮いてはだめ。それには足の指先に気を入れる事。之で体全体に気が入り妄動しなくなる。
今一つの要点は、切先に気が入らねばだめ。切先に気が入らぬと死に太刀となる。
即ち剣道は足の指先より切先迄気合が充実すること。この二点に充実すれば三角矩が出来る。
↑※
剣先に気を入れなければ攻めを相手に意識させることができないのはいうまでもない。
足の指先云々は、意識しすぎると力みが出るのではないかと思う。
通身是手眼にしろ遍身是手眼にしろ、総身を使えた方が勝てるということは言えるのだろう。
「三角矩(さんかくく)」については註があるのだが、読んで理解できるだろうか?
山岡鉄舟は、三年の苦修鍛錬により流儀の体が備わると言っている。
この流儀の体というのは剣道の本体、道の本体のことで、道に入る第一関門。
これを鉄舟は「三角矩」と称して、「当流の門に入り剣道を学ばんとせば先ず此三角矩を初学第一の根元とす」
と言っている。万物は体があって後に用(ゆう。はたらき)があり、体が無ければ用は無い。
剣法もこれと同じであるという道理を知って三角矩を固く守って修行すれば体用不二の奥義を得ることができるというわけである。
さらにこの三角矩について鉄舟は「太刀の寸は自身の手を以て十束を定寸とす。
十束は自身の半ばなり。三角の矩は眼・腹・剣頭の三つを一つとなし敵に立ち向かうなり。
太刀の寸は我が左右の手を延ばしたる所の全体の半ばなるが故に、十束の剣を持ち立つときは、全身延びて敵に向かうわけなり」
(春秋社刊『山岡鉄舟』大森曹玄著より)と説いている。
この三角矩を小川先生はかなり意識して使っている。
ただ、三角矩が成立しているかどうかで構えを判断するというのは理を先にして実を合わせているようで違うのではないかと思う。
妙義にて武田君を使い体験。
彼はちょこちょこ技を出すので使えないが、相手の切先を抑える事と相手の中心(水月)を攻める事でやれば比較的、落ち着いて使える。
切先だけを抑えてもだめ。水月を(中心を)押えて使わなければだめ。
又如何に相手の水月に切先をズンとつけていても、それが相手の動きにより、相手の動きに従って勝ちうる切先のはたらきが無ければだめ。
研究ー相手の切先を先ず裏、表より柔らかく押えてみて、スッとニ、三寸出て切先で相手の中心(臍)をググッと攻める。
(この時は右手の力を全部ぬき、左拳と切先だけでグッと入る心)之が一刀流の拳攻め也(持田先生の攻めはこれ)。
↑※
「武田君」とは、武田正富先生。
妙義道場閉鎖後は野間道場で稽古されていたそうなのだが、わたしが行くようになったころには居られなかったようだ。
一刀流の拳攻めということ、よくわからない。
一刀流を教えていただいた阿部先生からは中心を半分とって(全部ではない)入るという攻め方を教わったのだが、
内容的にはそれと同じような感じ。
構えは松川先生に一年かけて直されて、一刀流の下段に近い構えになったが、その応用。
この注はこう書かれている。
一刀流では下段でも中段でも剣先を相手の拳につけるように構える。だから一刀流の下段は普通より少し高目である。
下段から中段にかわる場合でも、相手の拳に切先を付けながら中段になる。
拳を追って剣先がだんだん上がっていくのである。目付けも同様に拳に付けるのがポイントである。
拳にこんなに振り回されていては後手になってしまうのではなかろうか?
一刀流で、打太刀の小手を打ったのち、大正眼状態にあるわけだが、そこから中正眼、正眼へと戻していくときに
拳に剣先を合わせるということはある。
相手も正眼に戻るのだから。
しかし、拳だけを追いかけるというのとは違う。
日本剣道形の五本目は平正眼を使うが、その時は拳に剣先をつけている。
しかし、一刀流の正眼は相手の目に付けると教わった。
一刀流の相正眼は拳に付けあうのではなく、お互いに目に付けている。
下段は一見拳に付けているようだが、水月に付けているのではなかろうか?
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