先日フランシスコ会聖書研究所訳注の新約聖書をスキャンした。
これって、注や地図がこまめに出ていて、一番わかりやすい聖書を作ろうとしてできた本なのじゃなかろうかと思った。
そのせいでもないんだけど、Eテレでやっていた、「こころの時代」のキリスト教関係の番組、二つを見る。
1つは、12月3日に再放送した、「母なる神への旅〜遠藤周作“沈黙”から50年」
日本でもアメリカでも映画化された、遠藤周作の小説「沈黙」を扱ったもの。
この番組では物語の概略を述べてもいたので、ちょっと長くなるが、ここでも抜粋しておこう。
既に読んでいる人は、飛ばして、私見だけ拾い読みをしてくれればいいだろう。
発端は、こんなものだった。
「ローマ教会に一つの報告書がもたらされた。ポルトガルのイエズス会が日本に派遣していたクリストヴァン・フェレイラ教父が長崎で、「穴吊り」の拷問をうけ、棄教を誓ったというのである。
この教父は日本にいること二十数年、地区長(スペリオ)という最高の重職にあり、司祭と信徒を統率してきた長老である。
稀にみる神学的才能に恵まれ、迫害下にも上方地方に潜伏しながら宣教を続けてきた教父の手紙には、いつも不屈の信念が溢れていた。
その人がいかなる事情にせよ教会を裏切るなどとは信じられないことである。
教会やイエズス会の中でも、この報告は異教徒のオランダ人や日本人の作ったものか、誤報であろうと考える者が多かった。」
フェレイラが棄教したというので、その調査に来たフランシス・ガルペと、フェレイラの弟子セバスチャン・ロドリゴが、マカオで出会ったキチジローという日本人の案内で日本に行く。
キチジローは隠れキリシタンの村、トモギにロドリゴたちを連れて行き、そこにかくまわれる。
しかし、キチジローと、村人、モキチとイチゾーが奉行所に連行されてしまう。
3人は、聖母子像を浮き出された踏絵を踏まされ、侮辱的な言葉を吐いて、唾を吐きかけるように言われる。
臆病で、気持ちの弱いキチジローは言われたとおりにするが、モキチとイチゾーはそれができず、切支丹として、浅瀬に立てられた杭にくくりつけられ、潮の干満によって、長時間苦しんで死ぬ姿を村人に見せて、見せしめにされる。
「「きつかやろうね。辛抱するとよ。パードレさまもわしらもみんなオラショば祈りよるけん、二人がパライソ(天国)に行く行くやろうって思うとるよ」
懸命にオマツがそう励ましまし、持ってきた干し芋を口に入れてやろうとしますと、モキチは首をふりました。
どうせ死ぬのなら一刻も早くこの苦しみから逃れたいと思ったのでしょう。
「婆さま。イチゾウさんに」とモキチは申しました。
「食べさせてやってくれんね。わしはもう怺(こら)えられませぬ」
…(中略)…
夜が来ました。監視の男たちのたく焚火の赤い火は、我々の山小屋からもかすかに見えました。がその海岸にはトモギの部落民たちが群がり、ただ、暗い海を凝視していたのです。
…(中略)…
その時、波の音にまじって彼らはモキチのものらしい声を聞いたのです。
この青年は自分の人生がまだ消えていないことを部落民に知らせるためか、自分の気力を励ますためか、息たえだえに切支丹たちの唄を歌ったのです。
参ろうや、参ろうや
パライソ(天国)の寺に参ろうや
パライソの寺とは申すれど……
遠い寺とは申すれど
みんな黙ってモキチのその声をきいていました。
監視の男も聞いていました。雨と波の音で、途切れ途切れてはまた聞こえました。
…(中略)…
呻き声は時々、途絶えました。モキチには昨日のように自分を励ますため唄を歌う気力さえなくなったのです。
途絶えては、一時間ほどたつと、また風に流れてこちら側にいる部落の者たちに伝わってくる。
獣が唸るようなその声を耳にするたびに、百姓たちは体中を震わせて泣きました。
…(中略)…
殉教でした。
しかし何という殉教でしょう。
私は長い間、聖人伝に書かれたような殉教をーたとえばその人たちの魂が天に帰る時、空に栄光の光がみち、天使が喇叭を吹くような赫(かがや)かしい殉教を夢みすぎました。
だが、今、あなたにこうして報告している日本信徒の殉教はそのような赫かしいものではなく、こんなにみじめで、こんなに辛いものだったのです。
…(中略)…
なにも変わらぬ。
だがあなたならこう言われるでしょう。
それらの死は決して無意味ではないと。
それはやがて教会の礎となる石だったのだと。
そして、主は我々がそれを超えられぬような試煉は決して与え給わぬと。
モキチもイチゾウも今、主のそばで、彼等に先だった多くの日本人殉教者たちと同じように永遠の至福をえているのだろうと。
私だってもちろんそんなことは百も承知している。していながら、今になぜ、このような悲哀に似た感情が心に残るのか。
…(中略)…
なにを言いたいのでしょう。
自分でもよくわかりませぬ。
ただ私にはモキチやイチゾウが主の栄光のために呻き、苦しみ、死んだ今日も、海が暗く、単調な音をたてて浜辺を噛んでいることが耐えられぬのです。
この海の不気味な静かさのうしろに私は神の沈黙をー神が人々の歎きの声に腕をこまぬいたまま、黙っていられるような気がして…。」
役人に追われたロドリゴとガルペは、捕えられたとしても一人は生き残るように、別れて逃走することにする。
一人になったロドリゴは山中をさまよい、救いを求めるが、神は沈黙している。
「(しかし、万一…もちろん、万一の話しだが)
胸のふかい一部分で別の声がその時囁(ささや)きました。
(万一神がいなかったならば…)
これは怖ろしい想像でした。
彼がいなかったならば、何という滑稽なことだ。
もし、そうなら、杭にくくられ、波に洗われたモキチやイチゾウの人生はなんと滑稽な劇だったか。
多くの海をわたり、三ヶ年の歳月を要してこの国にたどりついた宣教師たちはなんという滑稽な幻影を見つづけたのか。
そして、今、この人影のない山中を放浪している自分は何という滑稽な行為を行っているのか。」
その後、キチジローに再会したロドリゴは、パードレと慕いながら己の弱さに打ち勝てない彼の裏切りによって、役人に売り渡され、捕えられる。
「「パードレ。ゆるしてつかわさい」
キチジローは、地面に跪いたまま泣くように叫びました。
「わしは弱か。わしはモキチやイチゾウんごたっ強か者(もん)にはなりきりまっせん」
男たちの腕が私の体を掴み、地面から立たせました。
その一人が幾つかの小さな銀を、まだ跪いているキチジローの鼻先に蔑むように投げつけました。
彼等はだまったまま私を前に押しました。
乾いた道を私は時々、よろめきながら歩き出しました。
一度うしろをふりむくと私を裏切ったキチジローの小さな顔が遠くに見えました。
蜥蜴のように怯(おび)えた眼をしたその顔が…。」
「基督(キリスト)がユダに売られたように、自分もキチジローに売られ、基督と同じように自分も今、地方の権力者から裁かれようとしている。
あの人と自分とが相似た運命を分かちあっているという感覚は、この雨の夜、うずくような悦(よろこ)びで、司祭の胸をしめつける。
それは基督教徒たちが味わえる、神の子との連帯の悦こびだった」
キチジローは、護送されたロドリゴについてきた。
役人に追われながら、こう叫ぶ。
「「じゃが、俺(おい)にゃあ俺(おい)の言い分があっと。
踏絵ば踏んだ者(もん)には、踏んだ者(もん)の言い分があっと。
踏絵をば俺(おい)が悦こんで踏んだとでも思っとっとか。
踏んだこの足は痛か。痛かよォ。
俺(おい)を弱か者に生まれさせておきながら、強か者の真似ばせろとデウスさまは仰せ出される。
それは無理無法と言うもんじゃい」
怒鳴り声は時々途切れ途切れては、哀訴の声に変り、哀訴の声は泣き声となり、
「パードレ。なあ、俺(おい)のような弱虫あ、どげんしたら良かとでしょうか。
金が欲しゅうてあの時、パードレを訴人したじゃあなか。
俺(おい)あ、ただ役人衆におどかされたけん…」
…(中略)…
司祭は眼をつぶり、ケレドの祈りを唱える。
今、雨の中で泣きわめいている男を放っておくことには、やはり一種の快楽があった。
基督(キリスト)は祈りは唱えても、ユダが血の畠で首を吊った時、ユダのために祈られただろうか。
聖書にはそんなことは書いていなかったし、たとえ書いてあったとしても今の自分には素直にそんな気持ちにはなれそうもなかった。」
やがてロドリゴと一緒に囚われていた日本人の切支丹が踏絵を踏まされ、拒絶した者の一人が、切り殺される。
「外界は少しも違っていなかった。
一人の人間が死んだというのに何も変わらなかった。
…(中略)…
こんな馬鹿なことはない。これが殉教というのか。
なぜ、あなたは黙っている。
あなたは今、あの片目の百姓がーあなたのためにー死んだというのとを知っておられる筈だ。
なのに何故(なぜ)、こんな静かさを続ける。
…(中略)…
彼は、膝をかかえたまましばらく、床の上でじっとしていた。
「時は殆ど十二時なりしが、三時に至るまで地下、遍(あまね)く暗闇となり」
あの人が十字架の上で死んだ時刻、神殿からは、一つは長く、一つは短く、また短く、三つの喇叭(らっぱ)の音がひびいた。
過越(すぎこし)の祭を用意する儀式が始まったのである。
大司祭長は青の長袍(ちょうほう)を着て神殿の階段を登り、犠牲の祭壇の前では長笛が吹き鳴らされた。
その時、空は翳(かげ)り、太陽は雲の裏側に消えた。
「日暗みて、神殿の幕、中より裂けたり」
これが、長い間考えてきた殉教のイメージだった。
しかし、現実に見た百姓の殉教は、あの連中の住んでいる小屋、あの連中がまとっている襤褸(ぼろ)と同じように、みずぼらしく、あわれだった。」
やがて同僚だったガルペも捕えられ、簀巻きにされて船から突き落とされる日本人信者の後を追い、波間に消える。
「あの人もその夜、神の沈黙を予感し、おそれおののいたのかどうか。
司祭は考えたくはなかった。
だが、今、彼の胸を不意に通り過ぎ、一つのその声を聞くまいとして司祭は二、三度烈しく首を振った。
モキチやイチゾウが杭にしばられ、沈んでいった雨の海。
小舟を追うガルペの黒い頭がやがて力尽きて小さな木片のように漂っていた海。
…(中略)…
海はかぎりなく広く哀しく拡がっていたが、その時も神は海の上でただ頑(かたく)なに黙りつづけていた。
「エロイ・エロイ・ラマ・サバクタニ」(なんぞ、我を見捨て給うや)
突然、この声が鉛色の海の記憶と一緒に司祭の胸を突き上げてきた。
…(中略)…
司祭はそれを長い間、あの人の祈りの言葉と考え、決して神の沈黙への恐怖から出たものだとは思ってはいなかった。
神は本当にいるのか。
もし神がいなければ、幾つもの海を横切り、この小さな不毛の島に一粒の種を持ち運んできた自分の半生は滑稽だった。
蝉がないている真昼、首を落とされた片目の男の人生は滑稽だった。
泳ぎながら、信徒たちの小舟を追ったガルペの一生は滑稽だった。」
ロドリゴは、沢野忠庵と名を変えたフェレイラに逢う。
そして穴吊りの拷問を受けている日本人信者たちの呻き声を聞きながら、対話する。
「「私が転んだのは、穴に吊られたからでない。
三日間…このわしは、汚物をつめこんだ穴の中で逆さになり、しかし一言も神を裏切る言葉を言わなかったぞ」
フェレイラはまるで吼(ほ)えるような叫びをあげた。
わしが転んだのはな、いいか。聞きなさい。
その後でここに入れられ耳にしたあの声に、神が何ひとつ、なさらなかったからだ。
わしは必死で神に祈ったが、神は何もしなかったからだ」
「黙りなさい」
「では、お前は祈るがいい。
あの信徒たちは今、お前などが知らぬ耐えがたい苦痛を味わっているのだ。
昨日から。さっきも。今、この時も。
なぜ彼等があそこまで苦しまねばならぬのか。
それなのにお前は何もしてやれぬ。
神も何もせぬではないか」
司祭は狂ったように首をふり、両耳に指を入れた。しかしフェレイラの声、信徒の呻き声はその耳から容赦なく伝わってきた。
よしてくれ。よしてくれ。
主よ、あなたは今こそ沈黙を破るべきだ。
もう黙っていてはいけぬ。
あなたが正であり、善きものであり、愛の存在であることを証明し、あなたが厳としていることを、この地上と人間たちに明示するためにも何かを言わねばいけない。
…(中略)…
「わしがここで送った夜は五人が穴吊りにされておった。
五つの声が風の中で縺(もつ)れあって耳に届いてくる。
役人はこう言った。
お前が転べばあの者たちはすぐ穴から引き揚げ、縄もとき、薬もつけようとな。
わしは答えた。
あの人たちはなぜ転ばぬのかと。
役人は笑って教えてくれた。
彼等はもう幾度も転ぶと申した。
だがお前が転ばぬ限り、あの百姓たちを助けるわけにはいかぬと」
「あなたは」司祭は泣くような声で行った。
「祈るべきだったのに」
「祈ったとも。わしは祈りつづけた。
だが、祈りもあの男たちの苦痛を和らげはしまい。
あの男たちの耳のうしろには小さな穴があけられている。
その穴と鼻と口から血が少しずつ流れ出してくる。
その苦しみをわしは自分の体で味わったから知っておる。
祈りはその苦しみを和らげはしない」
…(中略)…
「あの人たちは、地上の苦しみの代りに永遠の悦びをえるでしょう」
「誤魔化してはならぬ」フェレイラは静かに答えた。
「お前は自分の弱さをそんな美しい言葉で誤魔化してはいけない」
「私の弱さ」司祭は首をふったが自信がなかった。
「そうじゃない。私はあの人たちの救いを信じていたからだ」
「お前は彼等より自分が大事なのだろう。
少なくとも自分の救いが大切なのだろう。
お前が転ぶと言えばあの人たちは穴から引き揚げられる。
苦しみから救われる。
それなのにお前は転ぼうとはせぬ。
お前は彼等のために教会を裏切ることが怖ろしいからだ。
このわしのように教会の汚点となるのが怖ろしいからだ」
そこまで怒ったように一気に言ったフェレイラの声が試合に弱くなって、
「わしだってそうだった。あの真暗な冷たい夜、わしだって今のお前と同じだった。
だが、それが愛の行為か。
司祭は基督にならって生きよと言う。もし基督がここにいられたら」
フェレイラは一瞬、沈黙を守ったが、すぐにはっきりと力強く言った。
「たしかに基督は、彼等のために、転んだだろう」
踏絵が持ち出され、ロドリゴはその前に立った。
「司祭は足をあげた。
足に鈍い重い痛みを感じた。
それは形だけのことではなかった。
自分は今、自分の生涯の中で最も美しいと思ってきたもの、最も聖(きよ)らかと信じたもの、最も人間の理想と夢にみたされたものを踏む。
この足の痛み。
その時、踏むがいいと銅板のあの人は司祭にむかって言った。
踏むがいい。
お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。
踏むがいい。
私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分かつため十字架を背負ったのだ。
こうして司祭が踏絵に足をかけた時、朝が来た。
鶏が遠くで鳴いた。」
この、人間の痛みを知り、痛みに寄り添う基督の、なんと強いことか。
物語は、終盤に向かい、遠藤周作の最も書きたかったことが綴られて行く。
その前に、フェレイラやロドリゴを転ばせた元切支丹、井上筑後守の語る、その後の切支丹取締りについて引用しておこう。
「パードレは知るまいが、五島や生月(いきつき)にはいまだ切支丹の門徒衆と称する百姓どもがあまた残っておる。
しかし奉行所ではもう捕える気もない」
「なぜでございます」と通辞が聞くと、
「あれはもはや根が断たれておる。
もし西方の国々からこのパードレのようなお方が、まだまだ来られるなら、我々も信徒たちを捕えずんばなるまいが…」と奉行は笑った。
「しかし、その懸念もない。根が断たれれば茎も葉も腐るが道理。
それが証拠には、五島や生月の百姓たちがひそかに奉じておるデウスは切支丹のデウスと次第に似ても似つかぬものになっておる」
…(中略)…
「やがてパードレたちが運んだ切支丹は、その元から離れて得体の知れぬものとなっていこう」
そして筑後守は胸の底から吐き出すように溜息を洩らした。
「日本とはこういう国だ。どうにもならぬ。なぁ、パードレ」
奉行の溜息には真実、苦しげな諦めの声があった。」
五年後に、キチジローが再びロドリゴの前に現れた。
ロドリゴは、世間では「転びのポウロ」というあだ名をつけられていた。
「聞いて下され。
たとえ転びのポウロでも告悔(コンヒサン)を聴聞する力を持たれようなら、罪の許しば与えて下され」
(裁くのは人ではないのに…そして私たちの弱さを一番知っているのは主だけなのに)と彼は黙って考えた。
「わしはパードレを売り申した。踏絵にも足かけ申した」
キチジローのあの泣くような声が続いて、
「この世にはなあ、弱か者と強か者のござります。
強か者はどげん責苦にもめげず、ハライソに参れましょうが、俺(おい)のように生まれつき弱か者は踏絵ば踏めよと役人の責苦を受ければ…」
その踏絵に私も足をかけた。
あの時、この足は凹(へこ)んだあの人の顔の上にあった。
私が幾百回となく思い出した顔の上に。
…(中略)…
(踏むがいい。
お前の足は今、痛いだろう。
今日まで私の顔を踏んだ人間たちと同じように痛むのだろう。
だがその足の痛さだけでもう充分だ。
私はお前たちのその痛さと苦しみをわかちあう。
そのために私はいるのだから)
「主よ。あなたがいつも沈黙していられるのを恨んでいました」
「私は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいたのだ」
「しかし、あなたはユダに去れとおっしゃった。
去って、なすことをなせと言われました。
ユダはどうなるのですか」
「私はそう言わなかった。
今、お前に踏絵を踏むがいいと言っているようにユダにもなすがいいと言ったのだ。
お前の足が痛むようにユダの心も痛んだのだから」
その時彼は踏絵に血と埃(ほこり)とでよごれた足をおろした。
五本の足指は愛するものの顔の真上を覆った。
この烈しい悦びと感情とをキチジローに説明することはできなかった。
「強い者も弱い者もないのだ。強い者より弱い者が苦しまなかったと誰が断言できよう」
…(中略)…
「この国にはもう、お前の告悔を聞くパードレがいないなら、この私が唱えよう。
すべての告悔の終りに言う祈りを。…安心して行きなさい」
怒ったキチジローは声をおさえて泣いていたが、やがて体を動かして去っていった。
自分は不遜(ふそん)にも今、聖職者しか与えることのできぬ秘蹟をあの男に与えた。
聖職者たちはこの冒涜(ぼうとく)の行為を烈しく責めるだろうが、自分は彼等を裏切ってもあの人を決して裏切ってはいない。
今までとはもっと違った形であの人を愛している。
私がその愛を知るためには、今日までのすべてが必要だったのだ。
私はこの国で今でも最後の切支丹司祭なのだ。
そしてあの人は沈黙してのではなかった。
たとえあの人は沈黙していたとしても、私の今日までの人生があの人について語っていた。」
このあと、「切支丹屋敷役人日記」の引用として、ロドリゴに付き従って来たキチジローが切支丹の疑いをかけられ、例によって、脅かされて全てを白状したキチジローの証言で、彼と付き合っていた日本人が家族と共に拷問されて処刑されたこと。
ロドリゴが64歳で病死したことが記録される。
この時期、日本で処刑された切支丹は、名前のわかっている者だけでも千人を超えるという。
日本でキリスト教がもっと浸透していたら、この時期の南米のように、欧州人の植民地になっていたのかもしれない。
しかしここでは、そうした問題よりなにより、一人の人間にとって基督・イエスという者がどんな意味を持つのかを考えさせられる。
苦しんでいる者に寄り添い、一緒にいてくれる者としての基督。
これがキリストの力であり、魅力であり、愛なのだろう。
デウスではなくイエスだからこそ、できること。
それを考える、もう一つの番組があった。
フランシスコ会の翻訳した聖書をスキャンしていたわけだが、このフランシスコ会から日本に派遣されて、大阪の釜ヶ崎で活動している本田を扱った番組。
(続く)
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