Eテレ「こころの時代」で阿満 利麿(1939 - 日本の宗教学者、明治学院大学名誉教授。専攻は宗教学、日本思想史)を講師として『歎異抄』を取り上げていたのを見た。
「無宗教からの扉」という副題がついているように、信仰を持たない者、信仰や神仏を疑う者、或いは煩悩の虜になっている者、悪行を犯してしまった者をも救済するという阿弥陀の本願がどういうものであったかということや南無阿弥陀仏と唱える称名の意味などを述べていて、面白かった。
彼は「仏教と言うものは論理というものを極めて大事にしている宗教ですね。一つ一つ納得して次へ進むという道筋をたどるのが仏教であって、「わけの分からんことを信じ込め」ということは仏教では一切ありません。阿弥陀仏というありがたい存在があるんだから、それを頭から信じ込めば自分は救われるんだというふうな思い込みに走ることが多いが、決してそんなことはありません。そんなことを言うとしたらそれは仏教ではない」と言う。
これは全くその通りだと思う。
これについてはもっと落ち着いて書いてみたいと思うが、このシリーズの最終回で、弥陀の本願の実践という事について言っていることについてだけ、ちょっとメモ。
『歎異抄』の末尾に付録のように書かれているのは浄土宗に対する宗教弾圧の記録だ。実践しようとすれば権力との軋轢を生じて弾圧されるという事を言っているんだということだろう。
そして取り上げていたのは高木 顕明(1864 - 1914)だった。大逆事件で死刑判決を受け、後に減刑されて、秋田刑務所で自殺した人物だ。彼は紀州の被差別部落民を檀家に抱える寺の住職となり、その貧困や差別されている姿をまのあたりにし、「こんな人たちから喜捨はもらえない」と、整体師の資格を取って、それで寺を維持していたというような方で、新宮に遊郭を作る話が起こると、貧家から娘が身売りされることになるからと反対したり、日露戦争が始まると、真宗大谷派の本山も率先して協力したのに、反戦運動をやったという人物だった。
大谷家は超富裕層で天皇家と親戚になったりしていた時代だから、高木の僧籍を剝奪して永久追放した。それを反省して復職するまで、80年以上かかるのだが、教団になって権力が生まれると、たやすく変質してしまうという事でもあるだろう。
金を欲しがるのも権力を維持しようとするのも煩悩。
口では綺麗ごとを言っても、煩悩からは離れられない。
個人でそれに対して行こうとすれば、高木顕明のようなことになり、多くの、名も伝わらない遊行僧や末寺の僧として、一隅を照らす生涯を送ることになるのだろう。
それはそれでいいのだが、本覚思想からすれば、どうなのだろうか。
などと考えていたのだが、もう遅いから、ここまで。
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