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2021年09月10日21:52

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「100分deメディア論」の内容(一部)覚書

以下、Eテレで2018年3月17日に放送した「100分deメディア論」の内容(一部)覚書です。
非常に興味深い内容だったのでメモっておきました。
私見は書き込んでないのですが、メモの内容はおおむね支持できるものです。

国際ジャーナリスト 堤未果
ウォルター・リップマン『世論』(1922)
大衆の意見というものが、いかに弱いものか。危ういものかということを書いた。
中島「昔の日本では、「せろん(世論 大衆の情緒的な気分)」と「よろん(輿論 理性的な判断に基づく公的な意見)」を区別していた」
堤「リップマンは、ステレオタイプという言葉を出してきた」
「どんな人でも、自分の経験したことのない出来事については、自分の思い描いているそのイメージが喚起する感情しか持つことはできない」
人は捉えきれない現実を想像力で補って認識しようとする。その仮の現実を、リップマンは「擬似環境」と呼んだ。
人は知らず知らずのうちに、自分が作り出した「擬似環境」の中で行動する。
すると その行為の結果、現実を動かしてしまう。
人はどのように擬似環境を作っていくのか。
「我々はたいていの場合、見てから定義しないで、定義してから見る。外界の、大きくて、盛んで、騒がしい混沌状態の中から、すでに我々の文化が我々のために定義してくれているものを拾い上げる。そしてこうして拾い上げたものを、我々の文化によってステレオタイプ化されたかたちのままで知覚しがちである」
ステレオタイプとは、型に鉛を流し込んで作った版の事。決まりきった形しか押せない。
人はものを見るとき、どうしても手持ちの型に当てはめて見ようとしてしまう。
「実際の感覚と先入観は混じり合う。我々が現に見ているものが我々の予期していたものとうまく一致していれば、そのステレオタイプは将来にわたっていっそう強化される。ちょうど、日本人はずるいと前から知らされている人が、あいにくと不正直な日本人二人とたまたま続けざまに出くわしてしまったようなときがそれである。我々の注意は そうしたステレオタイプを支持するような諸事実にひかれ、それと矛盾するものからは離れる」
育った環境や教育で、それぞれが持つステレオタイプは異なる。人種に対する見方、道徳観、理想の国家像など一人一人がいくつもの色眼鏡を持っている。それを通して、自分のステレオタイプに近いものを正しいと判断する。このように形作られていく「世論」は、現実の姿を正しくとらえたものではないとリップマンは考えた。

ステレオタイプを持つ理由
1.経済性
 世界で起きていることの全てを見ることも経験することもできない。
 手間もお金も時間も情報収集にかけられないので、自分の中のイメージを使って、それを知ったような気になるしかない。
2.心の安定を守る
 慣れている環境の中にいると、人は心地よい。
 だから そこから出ようとしない。
 違う価値観が入ってくると、それを排除しようと、本能的に防御してしまう。
 嘘つきに続けて会った場合ではなく正直者に会っても、「これは高度なウソに違いない」というように解釈して、自分の認識を変えようとしない。
 ネットで陰謀論を見ていて、それがスッポリ当てはまると気持ちがいい。それで、その世界から出てこられなくなるようなこと。
 隣国同士の場合も、先にイメージがあり、自分の小さな経験のいくつかがそれに当てはまると、非常に強い排外主義・差別意識に転化しやすい。
 リップマンは、大衆は情緒で動かされる。だから、ステレオタイプをそのままにしておくと、偏見を生み出し、正確な情報というものをみんなが理解して建設的に考えることはできなくなっていくという危険性を指摘している。

ステレオタイプとメディア
大衆のステレオタイプに影響を及ぼすのがメディア。
リップマンが先ず取り上げたのが、映画。
映像の大きさを指摘する。
「フィクションを通して得られた類型が 結局のところ現実の上に重ねられる。映画も着々と事物のイメージをつくり上げつつあり、新聞で読む言葉によって 人々が心に思い描くのは、ほぼ疑いなくそのイメージである。
例に挙げるのは『国民の創生』グリフィス監督 1915年)。アメリカ建国の歴史を扱った映画。
この中でグリフィス監督は、KKKの黒人虐待を白人の視点から描いている。
「歴史的に見てこの映画は誤っているかもしれないし、道徳的に見て有害かもしれない。しかしそれは一つの具体的な形をとっている。この秘密結社について、グリフィス監督以上のことを知らない人が この映画を見たらこんどクークラックスクランの名を聞くとき、必ずやスクリーン上に見た白衣の騎士たちの姿を思い浮かべるだろう」
※『国民の創生』公開後、一度姿を消したKKKが復活。黒人リンチが再燃した。

リップマンは、新聞もステレオタイプから逃れられないと指摘する。
「新聞報道は、目の届かない環境と接触するための主要な手段であるとして、世間に広く認められている。日に一回、あるいは二回、新聞は我々が関心を持っている外部世界の全容をあらわす真実の映像を我々に提供してくれる。ほとんど全国津々浦々でそう考えられているのだ」
しかしそれは大きな間違いだ。新聞社の経営を支えているのは広告主。経済効果を期待する彼らのために新聞社はなるべく多くの定期購読者を得なくてはならない。そのため編集者は限られた紙面の中にニュースだけではなく、スキャンダルや犯罪、スポーツ、芸能ゴシップ、人生相談など人々のステレオタイプに合わせた話題を盛り込む。
「ある状況の、ステレオタイプ化された一面だけに注目すればよいという省力主義。これまで自分が学んだことがなかったものにも目を注ぐことのできるジャーナリストを見つけるむずかしさ。読者をすばやくひきつけるべしという経済的要請、ニュースの記述が不十分だったり不手際だったりして、期待が外れた読者の不興をかった場合の経済的危険。圧力はそうした各方面から咥えられる」
このようにして作られる新聞には、真実を人々に伝えるような機能はない。リップマンは、そう指摘する。
これは、TVでも言えること。
堤 広告主ばかりではなく、番組制作者や記者などにもステレオタイプはあって、それを通して事実の一部を切り取っているに過ぎない。
 だから、ニュース=真実だと思うのは危険だ。
 メディアは中立だと思うのは幻想だとこの本は言っている。

中島 アレクシ。ド・トクヴィル(1805〜1859)(フランスの政治思想家。著書『アメリカのデモクラシー』など。)の説。
民主制はどうしたらうまく回るのかと言ったら、中間共同体(国家と個人の間にある領域、教会とか趣味のサークルなどで形成されたコミュニケーション)というものが重要だ。
しかし、民主制はやがて終わるだろう。何がピリオドを打たせるのかと言えば、終わらせるのはマスメディアだ。
大衆化が進むと、人々は情報を共同体ではなくマスメディアから得ようとするようになる。
マスメディアは大衆の気分に寄り添い、相互補完関係になる。
それを利用しようとする代理人としての政治家が現れる。
それにより「多数者の専制」が起きる。
多数者が少数者の意見を全く聞かなくなっていく。
この、100年後にリップマンが『世論』を書くのだが、非常にリンクしたものになっていて、大衆社会における民主制の限界を指摘している。

堤 民主主義の前提は、大衆が情報を理性的に判断し公益を考える力があること。
 これは理想的な考え方なのだが、リップマンは否定している。

リップマンは第一次世界大戦時、米国大統領のブレーンだったが、建議して作らせた広報委員会が世論誘導を目的に徹底的なプロパガンダを行った。
それによって、戦争介入に批判的だった世論は、参戦支持に転じた。
「政府はこの時期、全米にわたってほとんど一つの世論と呼んでもよいようなものを作り出そうと努力していた。そして戦争が継続している間は非常に大きな成功をおさめていた」
リップマンは、度を越えた大衆操作を批判。
ジャーナリストの立場に戻り、言論活動を再開した。

堤 リップマンには大義があって、アメリカが参戦することで、国際協調路線というものが整備されて、その先に、非常に民主的な国際社会ができると考え、その前に、適切な情報を出して、国内世論を参戦の方向に変えようとした。
 しかし、政府が徹底的なプロパガンダをして大衆の感情を一つの方向に誘導したときに、アメリカは戦争ヒステリー状態のようになっていった。
 ウィルソン大統領もそれに心酔してしまって、反対意見をもう出ないようにしようとし始め、雑誌が差し止められる、編集者が逮捕される。新聞にも手が伸びるという言論統制の方にエスカレートしていく。
 それを見て、リップマンは新聞記者として批判した。

中島 リップマンはプロパガンダの当事者で、そのノウハウを理知的に探究した人でもあった。
 一方で、その危険性もジャーナリストとして感じていた。
 だからこんな本を書くんだと思う。
堤 大衆を操作するというキーワードが、この時に重要視されていく。
 このあとアメリカでは揺り戻しがあって、レーガン大統領の時に、この広報委員会はおかしい。違法じゃないかというところまで行って、ジャーナリズムの黄金時代というものがあった。
 ところがそのあと、IT革命とグローバル化で巨大化し過ぎた企業が、政治に影響力を持ちすぎて、企業が代わりにそれをやるようになった。
 戦争だけではなくて、企業の利益のためにマーケティングという名前で大衆操作をしていく。
大沢 企業の場合、露骨な誘導というのではなく、「あなたへのおすすめ」というような形で、ステレオタイプを助長するような情報が提供されてくる。
 だから誘導されているとは思っていない。
伊集院 ネット社会の温度差のようなものも、だんだん人間は学んでいくような気がする。
堤 例えば教育ができることというのがたくさんあって、ステレオタイプからは逃れられないけど、ステレオタイプのメカニズムを知る事によって、我々は少し引いて見ることができたり、メディアの限界を知る事で、メディアの可能性を伸ばすようにすることができたりする。
 歴史を紐解いていくということが重要で、我々が直感的に、皮膚感覚的に、点で情報をみてしまうのが、長い歴史の中でそれがどういう意味を持っていたのか理解することができる。長いスパンでニュースを見るということで、100%の答えはないけれども、成長していくことはできる。

ステレオタイプを自覚することの大切さをリップマンは語っている。
「我々の心が自らの主観主義をさらに深く自覚するようになるにつれて、我々は自分の偏見がもたらす途方もない害や、気まぐれな残酷さをはっきりと見る。偏見を打ち砕くことは我々の自尊心に関わってくるために、はじめは苦痛であるが、その破壊に成功したときは、大きな安堵と快い誇りが与えられる」


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