『臥雲日件録抜尤』大日本古記録 昭和36年 を見ていたら、希世霊彦が『百川学海』を持っていたという記事が出ていた。
周賢天英が『百川学海』の12・13冊を持参して瑞渓周鳳に見せたというのだが、「此書、永享初、來自大明者也」とあるのが読みにくい。
この文の主語が周賢天英なのか『百川学海』なのか判じがたいからだ。
「者」を使っているのだから、人物である周賢天英が主語だろうと言うのは簡単だが、そうした使い方をしているのかどうか、いまいち自信が無いのだ。
周賢天英について知っていれば、もう少しはっきりしたことが言えるのだろうが、この人の事を私は知らない。
「或曰、此書全部未來、蓋三分之一也、不知実爾乎」
全177巻、100種の書物を集めた『百川学海』の全巻を所蔵していれば、この時代、大変なことなのかもしれないが、三分の一くらいしか渡来していないだろうという。
「不知実爾乎」は、「実に爾(こ)れかを知らず」と読むのか。
「ホントかどうかわからないが」ということだろう。
…で、それを「彦侍者(希世霊彦)」が持っていて、「予(瑞渓周鳳)」が「鹿苑院」の住職だった時、一冊借りてきたことがあり、それ以後、毎回一・二冊づつ借りて読んだ。
ということなのだが、厳格な貿易管理をして記録を残していた時代ではないから、どんな本が国内にあったかは、こうした記事をつなぎ合わせて探るしかないだろう。
もし周賢天英が『百川学海』の一部を来日時に持参したとしたら、五山僧が渡来時に本を持参した実例になるだろう。
とにかく、ボチボチ日本人の書いた日記にあたって、経験値を積んでいこうかなと思う 今日この頃なのであります。
ログインしてコメントを確認・投稿する