平泉は、学生運動にも取り組んでいたようだ。
ドイツでは共産主義を奉じる学生は少なく、ナチ学生同盟が勢力を伸ばして、赤化教授の任官を潰すなどしていたという。
それを見てきたからではないかというのだが、だとすると、ナチスの影響は やはりあったということになる。
朱光会の活動についてもそうなのだが、私塾として青々塾を運営し、数名の信奉者を教育していた。
この青々塾は平泉の自宅ではなく、同じ駒込曙町の平塚定二郎という会計検査院次長で退職した官僚の家を借りて運営していたのだが、ここの娘の明子は、後に雷鳥と名乗る女性解放運動家となる。
しかし、平泉と会うことはなかったらしい。
明子が移り住んだ頃の駒込曙町が、一面の茶畑だったというのも、面白い。
1933年4月、青々塾の最初の塾生は5名だったというのだが、5月末には7名の新規入塾者が出て、松柏塾が開かれるなど、勢いのある運動になったようだ。
「塾には規則がなく、「先哲の学問と精神を体得し、忠孝の大義を究めることを目標に勉学すること」が求められていただけで、週一回約二時間の先哲遺文についての平泉の講義と、毎週の塾頭指導下の「講孟箚記」の輪読以外は、塾生の自発的勉強と相互の切磋琢磨に任せられていた」
塾生は、夏には鍛錬会という合宿などもやって、のんびり思想談義をしていただけというわけでもなかったようだ。
平泉は、1935年2月に史学会の常務理事となり、3月に黒板勝美の退官を受けて教授に昇格。
38年に辻善之助も退官して、史料編纂所にいた中村孝也が専任教授となり、平泉が押し込んだらしい学習院大学教授だった板沢武雄が助教授になるなど、平泉は国史学科と史学会での実力者になっていき、自分の門下生を委員や助手・副手につけて、さらに影響力を行使していく。
また、塾生たちは、卒業して地方に散っていき、そこで育てた優秀な生徒が上京して平泉門下に入るということにもなっていった。
学内では、1934年入学の遠山茂樹が、同期の石母田正・松本新八郎・家永三郎らと、クラス雑誌を出そうとしたら、「正規の授業以外の一切の活動はまかりならん」と平泉教授に言い渡されて、ポシャッたという話や、1942年に、永原慶二が「徂徠学と宣長学の思想史的交渉の一班」というテーマでの発表で、羽仁五郎の「国学の誕生」や「国学の限界」という論文によりかかるような発表をしたら、「あのような論文はよくないから読まぬほうが良いと厳粛な顔つきで」いましめられたという。
塾の内容について若井敏明は、
「青々塾に入門したての川野克哉が塾生の輪講で「師説といえどもおもねるべきではない」という所見を述べたら「全員から袋叩きに会った」という」
「川野は自らの未熟さを反省するように回想しているが、師説を「拳々服膺する」門下生たちの姿が見えてくる」
と書いているが、武道の場合、「守破離」と言って、最初は師の教えに盲従することが求められるので、そうした方向性から、小賢しいことを言うなと窘められたのであろう。
ただ、若井の次の指摘も当たっているのだろう。
「思想団体ではそれでもよかろうが、学問の場でそのような態度が求められたとすれば、反発をおぼえる学生がいたとしても不思議はない」
そうした学生たちは、平泉派が牛耳っている研究室ではなく、史料編纂所や図書館で勉強していた。
そして、もう一人の専任教授中村孝也のもとに集まって行った。
中村孝也は、東京高等師範学校を卒業して東大に進み、特待生として銀時計が与えられたという人物で、黒板勝美の退官の時、十数歳年下の平泉が教授になったことに不満もあったであろうという。
そして、遅れての任官だが、辻善之助の後をとって教授になっても、研究室にはほとんど顔を出さず、図書館内の個人研究室を使用していたという。
「中村も、時流に迎合した面を持つ学者ではあったが、平泉のようにむやみみ学生を指導しようとはしなかったらしい」
ということで、自宅はサロンのような雰囲気になっていたという。
そして、中村を中心にして、1940年に「とにかく実証史学の線だけは何とかして守らうという若い人たち」が「国民生活研究会」を作った。
平泉洋行中に結成された「歴史学研究会」も、反平泉の人たちが集まってくるようになる。
そして、他の学部の教官からも反発を受けるようになる。
西洋史の今井登志喜、東洋史の池内宏らで、特に池内との関係は険悪だったという。
そんな中で1939年事件が起こる。
学年末試験で、国史学科の学生二人と東洋史の学生一人がカンニングをしたことが教授会で問題になり、退学と停学の処分を受けたが、坂本太郎によると、これは朱光会の活動を面白くないと思っていた池内が仕掛けてものだったという。
処分を受けた学生は朱光会のメンバーではなかったが、平泉はショックを受け、国史学科の教員四人が辞表を出すような話まで発展する。
結局辞任とはならなかったが、学生の行儀取り締まりが厳しくなったり、教官同士のコミュニケーションをとろうと図るようになったという。
しかし、効果のほどは疑問詞がつくようだ。
池内は敗戦間近に憲兵隊に引っ張られて事情徴収されるという憂き目にあったが、平泉の密告によるといううわさが流れたらしい。
東洋史出身の布目潮風は、信じていないと言っていたそうだが、そうした風聞が取りざたされるような関係であったということだろう。
洋行から帰ってのち、平泉は文部省の要請などで、度々地方で講演している。
かなり頻繁に歴史学ではなく「思想」の方で講演しているので、確かに研究に割く時間は極端に無くなっていたろう。
その訓導効果がどれほどのものだったかわからないが、自由参加にしたら聴衆が半分ほどしか集まらないなど、当然反発もあった。
そのいら立ちを大川周明に手紙でこぼしている。
「小生此度の旅、大阪高知京都の三高等学校に於いて日本精神を高唱致候ひしも、如何せん多年惰弱放漫の教育をのみ受けたる学生の事故、一向に真の感激なく骨まで腐りはてたるやからと痛嘆罷在り候」
静岡高等学校では、講演後の茶話会で、橋本景岳について、他に偉いところがあったら聞かせてほしいと生徒が質問したら、
「私がこれだけ詳しく話をしたのに、まだわからないのか。私はこのやうに愚劣な人々と同席することを恥とする。帰ります」
と言って帰ってしまった。
こんな調子では、やはり反発も強くなるだろう。
結局平泉は、「国民精神文化研究所」にも入らなかったし、東大から和辻哲郎・藤懸静也・宇井伯寿という三人の委嘱者を出している「国体の本義」編纂にもかかわらず、文部省の手先として動いたのではなかったという。
国史研究室のほうが居心地がよかったということのようにも見えるが。
しかし文部省と縁を切っていたわけではなく、思想視学委員になったり、教学刷新評議会の委員になったりしてはいる。
そして、戦時下で、「国史の浅薄なる美化主義」と「過酷なる摘発主義」を批判する。
「国史の浅薄なる美化主義」とは、歴史上の悪帝や逆臣を記載しないという歴史の記述方法で、当時、岩波文庫の「日本書紀」では、悪帝であったとされる武烈天皇の記載がカットされていたというようなこと。
平泉からすれば、「いくたびも危機的状況に陥った国体が幾多の先哲・忠臣・義士によって護持されてきたことに焦点を当てる」べきだと考えていた。
武烈天皇については、「過酷なる摘発主義」から問題視する人たちがいた。
1934年に平泉が訳した「神皇正統記」を文部省思想局の「日本精神叢書」第十編として出版したところ、武烈天皇の記載が問題になり、一部で告発運動があったということだ。
若井敏明はここで、平泉の国史観についてまとめている。
「平泉はまず悠久の昔の国史の根本として、天孫降臨に際して天照大神が与えた「天壌無窮の神勅」をあげる。彼はこれが『日本書紀』の一書に見えることから、書紀編者が古き伝えを記したものとし、これが事実であることは、歴史が証明し、国民道徳が実証しているという。そして同時に国民道徳もこの事実から出発するという。
では、その歴史とは何かといえば、古き歴史を保持し、君臣の大義を弁え、国威を海外に宣揚したことである」
古代末期に君臣の大義や華夷の弁が危機に瀕したとき現れたのが聖徳太子で、十七条憲法の制定や遣隋使の派遣などで乗り切った。
それが十世紀以降、君臣の義に代わって私利私欲によるして私的主従関係が成立し、惰弱と迷信が横行する世相となって中世に入っていく。
かつての「斬新な中世観が、中世を武士の時代とみる伝統的理解に回帰している」という。
そして、武家政治の功として「雄断果決の風を養ひ、節義廉恥の風を見るに至った」点であり、罪の方は「人情の無視、道徳の蹂躙をあげる」
道徳の蹂躙で最たるものが承久の乱だったというわけだが、「大日本史料」の承久の乱の部分を見ると、北条義時や平政子の没時の記載が簡潔すぎる程度で、特に「国史の浅薄なる美化主義」などは無いようだ。
もっとも、この辺の刊行は大正時代なので、まだそれほど国粋主義が蔓延していなかったことによるのかもしれないが。
「蒙古襲来から国体に関する自覚があらわれ」建武中興を生むが、それが敗れて、「無統制無秩序百年に亘る戦国時代」になるというのだ。
建武中興に関しては「「延喜天暦の御代」を理想とした延久の後三条、承久の後鳥羽の企てを受け継いだ事業で「大義名分を明らかにして、国体の正しき実現を計」ろうとするものだったが、「貪欲者の妄動、無自覚者の非歴史性」によって瓦解してしまう」
徳川政権は、皇室に抑圧的であり、鎖国政策をとったので問題があったが、尊王思想が醸成発展し、建武中興の理想が復活してくる。
平泉は日本の思想を大きく二つに分ける。
「ひとつはインドや中国など外国を尊重して日本の伝統をおろそかにする思想であり、ひとつは日本の伝統すなわち国体に立脚した思想である」
前者は仏教や儒教ということになる。
「しかし、そのようななかでも日本に基準を置く思想は存在した。中世ではそれは元寇に際して「末の世の末の末まで日の本はよろずの国にすぐれたる国」と詠んだ宏寛禅師、『元亨釈書』を著した虎関師錬であり、近世では山鹿素行や中江藤樹、とくに易姓革命を断固否定し、国体を鮮明にした山崎闇斎とその学派である」
前二者は僧侶。後は儒学者なのだが、矛盾とは感じていないようだ。
「平泉はそのなかでも浅見絅斎から若林強斎、谷泰山の学統を重視した。水戸学や橋本左内ら幕末の思想家もこの学派の影響を受けておりまさに、この思想が維新の源流なのである」
「平泉の歴史観は、いわゆるグローバルスタンダードを認めず、あくまで日本を基準とする。そして、日本を舞台にしつつそこに時代を通じて一貫したもの、国体を認め、それを拠り所にするのである。その歴史観にしたがえば、明治維新とは中世、いや十世紀以降曇らされてきた国体がようやく正しい姿を取り戻したことを意味する」
「それを再び、新たな革命思想の流布によって建武中興の如く瓦解せしめてはならない。平泉澄はかくの如く説いて、現実と切り結んでいたのである」
山崎闇斎について、私は違う理解をしていたので、読み直してみようかと思ったりしている。
1934年は、建武中興600年で、翌年は楠木正成没後600年ということになり、祝賀行事が行われ、平泉も講演会などに呼ばれることとなる。
大阪では、平泉と親しい安井英二が大阪府知事に、門下生の富田健治が警察部長になって、大阪坐摩神社の宮司で尊皇歌人の佐久良東雄を「真の日本人」として顕彰する事業などに参加している。
平泉と政治について原田熊雄は「西園寺公と政局」で「平泉といふ人はもう学者仲間からはまるで相手にされないで、今はある程度まで実際の政治運動に携はってゐるといふことである」と述べている。
平泉と皇室関係の接点となったのは、福井藩主松平春嶽の息子であった松平慶民だった。
慶民は侍従として昭和天皇の側近であった人物で、彼によって平泉は、秩父宮や高松宮と知己を得ることになる。
彼は平泉の帰国後、歓迎の夕食会を自宅で催しており、後にこの慶民の息子の永芳が海軍機関学校受験のために平泉宅に寄宿することとなり、平泉は玄関わきにわざわざ一室を増設して迎えるのだが、戦後にこの永芳が靖国神社宮司であったとき、A級戦犯合祀の問題が起ることになる。
また、歓迎夕食会にも同席した海軍大将の加藤寛治も同郷であり、共にロンドン軍縮条約に反対の立場から親しくなっていた。
この他にも、岡田啓介なども含めて、海軍上層部に多くの知己を得ていった。
平泉は、1932年3月から7月に、東大総長小野塚喜平次に命じられて、秩父宮に「日本政治史」を御進講している。
この御進講に際して、小野塚は美濃部達吉に相談して、平泉を推挙したのだという。
美濃部が平泉を推挙するというのは意外な感じがするが、美濃部は平泉の学識をかっており、1924年に法文学部を新設した九州帝国大学に平泉を呼ぼうとしたが、東大の講師になったので断念したことがあるという。
もっとも、後に美濃部が糾弾されることになる「天皇機関説」も、本来学会の主流の説であって左傾の流れではなかったし、この頃の平泉は、中世史に新鮮な風を吹き込んだ気鋭の学者と見られていたのだろう。
若井敏明はここで、秩父宮による皇位簒奪の風分について触れている。
この話は昭和天皇も知っていて、軍のクーデターの企てがあると、それが実際に行われるのではないかと警戒していたようだ。
長文になるが、この件に関する部分を断続的に引用する。
「秩父宮は前年の1931年11月に陸軍大学校を卒業し、その年の12月1日付けで歩兵第三連隊(歩三)、第六中隊長に就任していた。すでに秩父宮は陸軍士官学校在学中から革新派の青年将校と接触があったが、歩三には、菅波三郎などの影響で国家改造を希求する青年将校が集まっていた。秩父宮は、のちに二・二六事件で決起する安藤輝三と親しかった。秩父宮が北一輝の『国家改造法案大綱』を読んだのもこのころだったという。
この時期、秩父宮については不穏な噂がつきまとっていた。『加藤日記』の十月十七日の欄外には「関屋、秩父宮様帝位簒奪の可恐(おそるべき)評判立つ。不可恕(ゆるすべからず)」という記載がある。ちょうど十月事件直後で、秩父宮が革新派青年将校と親しいというところから出たものだろうが、関屋とは区内次官の関屋貞三郎のことと思われ、宮中でそのような噂があったことが事態の深刻さを示している。」
そして『本庄日記』の昭和6年暮れから7年春の事として以下の引用をする。
「或日、秩父宮殿下参内、陛下に対談御遊ばされ、切りに陛下の御親政の必要を説かれ、要すれば憲法の停止も亦止むを得ずと激せられ、陛下との間に相当激論あらせられし趣なるが、其後にて陛下は、侍従長に、祖宗の威儀を傷つくるが如きことは自分の到底同意し得ざる処、親政と云ふも自分は憲法の命ずる処に拠り、現に大綱を把握して大政を総覧せり。之れ以上何を為すべき。又憲法の停止の如きは明治大帝の創制せられたる処のものを破壊するものにて、断じて不可なりと漏らされたりと」
この論争は平泉の御進講の直前であったようで、昭和天皇に対して、自説を補強しようとして平泉を招いたということなのかと思えるが、周辺は、過激な思想に染まっている「秩父宮を「善導」することが期待されていた」ということだろうという。
平泉は翌年11月、昭和天皇への御進講を行うことになる。
これは、有馬良橘と松平慶民が企画したものだったようだ。
天皇の側近で忠臣たらんとするものは、明治天皇の佐々木高行などもそうだが、お上には忠実な右翼になるらしい。
主題は「楠木正成の功績」ということで、側近の文武官が陪席した。
木戸幸一は日記に「感銘深く陪聴した」と書いているが、原田熊雄は「西園寺公と政局」で内大臣の湯浅創平から、以下のように話されたという。
「実は平泉澄といふのは自分も知っているけれども、まあ非常に極端な右の方で、この前も陛下に建武の中興について御進講をしたのが、後醍醐天皇を非常に礼讃して、いかにも現実の陛下に当てつけるような話し方であった。後で木下書記官だけは非常に関心して「実に面白かった」と言ったが、木戸も「実につまらないことを申し上げたものだ」と言ってをった。自分もつまらないことを申上げたと思っておったが、」
昭和天皇は、後醍醐天皇の処置について、誤りもあったのに「それをただ建武の中興を絶対的に礼讃したといふことについて、陛下はあんまりおもしろく思っておいでにならなかったらしい」
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