盤珪 永琢(1622 - 1693)の不生禅。
公案というのは、一つの教育方法であったが、盤珪禅師は「古反故」と否定もしている。
「不生の仏心」とは、生まれないということではなく、もとから備わっているという意味。
霊妙な仏心は、はじめから自分に備わっているもので、それだけで全てが上手くいく。
その証拠は、説法を聞いているみなさんが、意識せずとも、私の後ろで鳴いている、カラスやスズメの声を聞いているということ。これは不生で聞くということだ。
自然をありのままに受け入れるという事。
これは宋代の禅ではなく、唐代の馬祖の禅。
「即身是佛」 ありのままの自分に立ち帰って生きよという教え。
外に意味や価値を追求するということに一生懸命で、自分を見失ってしまっている時代の人に対して説いたもの。
ありのまま(平常 びょうじょう 無事 ぶじ)でいいという考え方は、野狐禅(なま悟りで、何をしてもいいと考えてしまう禅)に通じてしまうのではないか?
確かに、ありのままでいいと考えると、自堕落でぐうたらで、どうしようもない生き方をしている人間を肯定することになる。
馬祖の弟子たちも、すでにそれでいいのかという疑問を持っていた。
平常・無事は、お腹がすいたら食べる。眠くなったら寝るという事だと説明されている。
少し後に起こった石頭系の禅では、ありのままではなく、それを越えた、或いは別次元にある本来の自分を探求するという禅を主張しだした。
しかし、これで淘汰されず、ありのままとそれを越えるという二つの思想の間を揺れ動きながら禅の指導者は禅を伝えてきた。
無事が、宋代では悪い意味に変わった。
そして、「ありのままではいけない。悟りを開かなくちゃいけない。悟りを開いたら、ありのままの自分でいいということになる」と解釈されるようになる。
自灯明法灯明(釈迦の最後の教え「他者に頼らず、自己を拠りどころとし、法を拠りどころとして生きよ」)というのは、禅の語録に引きつけて言うと、一致するゴールがあるのではなくて、自灯明と法灯明が運動しているという事なのではないか。
悟りというのは、到達点ではなく永遠の運動ではないか。
法と自分を交互に乗り越え続けるということを、禅の問答は書いている。
外の世界に仏を求めている人には「己が仏だ。己に立ち帰れ」と説き、今の自分でいいのだとふんぞり返っている人には「その己ではダメだ」と言う。
禅籍は、一つの答えを抽出することができないように書いてある。必ず反対のことが書いてある。
「仏向上」(入矢がクローズアップした言葉)
従来は、仏に向かって上昇して行くという意味にとられていたが、「向上」というのは宋代の口語で「上 うえ」という意味だ。
「悟ったと思ったら、そこに安住していてはいけない。さらにその上に行けという意味でとらえよ」という理解に変えた。
禅の語録では、理解したと思われることを必ず否定される。
それはこの向上を求めるからだ。
これは禅だけではなく、仕事や生活でも言えることで、本当の禅の世界とは、禅室や禅宗という宗教を越えたところにある世界なのではないかと思う。
※禅の語録に関して、大変わかりやすく説いていて、いい話だったと思う。
全肯定とありのままに生きよは、他の仏教でも説くところで、一神教でも、「神の造りたもうた世界に、無駄なものも余分なものもないとい」う考え方で通じるものがあると思う。
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