これは洞山良价(807 - 869)の話。
質問者が「如何是佛(いかなるかこれ佛)」と尋ねると、答は「麻三斤」だった。
※これの答
たとえば↓こんな解釈をする人たちもいる。
http://www.geocities.jp/tentomsi2004/Q218.htm
しかし、小川先生はもっと具体的な話なのだという。
これについては、入矢義高の「麻三斤」という論文がある。
入矢のやり方は、いきなり哲学を持ち込まないで、中国語としてどう読めるのかを、当時の社会にも視野を広げて、先ず確かめるというやり方だった。
そして分かったことは、三斤というのは、当時の麻の流通単位だということ。
鉛筆なら一ダースというように、それが単位なのだ。
そして、なぜ三斤になったのかというと、それがちょうど衣一着分に相当する量であるからだということを突き止めた。
その上で問答を見ると、「佛とは何か?」という質問に対して、「衣一着だ」と答えていることになる。
それは、仏というものは礼拝の対象でもなく、経典に書かれた人物でもなく、(佛が生きた己の心の中の事という前提に立って考えれば)「衲衣下の事」つまり、「僧衣をまとっている己はどうなんだ?」という反問になっているのではないか?というのだ。
「門より入るものは家珍にあらず」
外来のものは家の宝にならない。
外から入ってきた知識は、自分の真実たりえない。
禅の問答では、教えてもらってはダメ。
老師は、自分自身が仏であるという事を、自分自身で発見できるように根気よく待ちつつ仕向けている。
例えば。
前出と同じ「如何是西来意」との問いに、
「庭前の柏樹子」と、趙州従諗(778 - 897)は答えた。
柏は、日本では落葉樹だが、中国では常緑の大木。
難解とされる問答の一つだ。
これについては「趙州録」にもっと初心者が聞いたであろう問答が載っている。
初心者の質問は「如何なるか是れ学人の自己(わたしの自己とはなにか)?」
答は「はた庭前の柏樹子を見るや(庭前の柏樹子が見えますか)?」
柏の木が実際にあれば、それを見ている、生き身の自己に気づけということ。
前記の問答も同じ。
己とは何か気づけということを言ってる。
入矢の研究の仕方は。同時代の同じテーマで行われた問答の記録を見つけ出して突合せ、そこから主旨を読み解くという手法を考え出した。
それからすると、「○○が見えますか?」と問い返している問答がたくさんあることがわかってきた。
以上は唐の時代のはなし。
宋時代になると様相が変わってくる。
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