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2016年03月06日23:36

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松岡榮志教授の最終講義(1)

出かけておりました。

3月4日は、武蔵小金井の東京学芸大学。
松岡榮志教授の最終講義。
100人くらいは入る教室が満員。

テーマは「わが師を語る」。
彼の一代記のような話でした。

彼の父親は早くに亡くなり、母親は再婚して、彼を母(彼にとっては祖母)のもとに預けて家を出てしまい、祖母と大叔母が育ててくれたのだそうです。
しかし、祖母の夫の会社が倒産。
幼時は貧困の極だったようです。

小学校5年の時、生きるために新聞配達を始めました。
その頃でも、10歳ぐらいで労働するのは違法。
まともに雇ってくれるはずがありません。
そこで、石川さんという集配所のおじさんを待ち伏せして、足にしがみついたんだそうです。
そして、新聞配達させてくれるまでは離さないと言うと、もちろん「ダメだ」と断られました。
しかし、ねばって頼み込むと、「お父さんやお母さんはいいって言ってるの?」と聞かれました。
「はい」
居ないんだから、まぁ何とでも言えるというか・・
とにかく必死で頼み込むと、やっと承諾してくれました。
それで毎日4時起きして100軒からの配達をしました。
夕刊は15時くらいから。
だから水泳教室だのピアノ教室だの、習い事など何もしていない。
これを中学3年まで続けたのです。

後で考えると、これが強靭な体を作ってくれた。
「心技体」という言葉がありますが、「体」がここで培われたんですね。
身の不幸を嘆いて世を憾み、意欲を無くして非行に走る人間もいますが、彼は違ったという事です。

わたしは40年以上の付き合いなので、人物評をさせてもらうと、先天的に優秀だとか天才だとか、そんな人物ではないと思います。
ただ、ひたむきさをもって自分を変え、人生を切り開いてきたように思います。
決して飛び抜けて精神が強いわけでも愚痴や弱みを見せないわけでもないのですが、今を出発点として、いつでも人生を切り開いていくという姿勢を持っていた。
いきなりすごい人間になったという事ではなく、一つ一つの積み重ねが彼を作ったという事だと思います。
この評は、内緒ですよ(笑)

ちょっと文体を変えて、その後の人生を書いておきましょう。

中学を卒業すると、高校へなど行かせてもらえないから、卒業した中学に事務員として就職した。
「そのときは、これで自分の人生は決まったと思いましたね。このまま事務員で一生終ると思っていました」
ところがそこで出会いがあった。

近くに英語の塾があって、友人たちが行くので、ついていった。
そこで、若井林一という先生に出会った。
それが彼の人生を変えることになる。

若井林一とはどういう人なのか?

生まれたのは、1898年(明治31年)岐阜県の中津川。
亡くなったのは、1978年。80歳。
松岡先生の出身地である浜松での逝去。

京都帝国大学哲学科卒。中央大学講師、京都女子大学教授などを歴任し、浜松で私塾啓文会外語塾経営。
訳書に、カイゼリング「ある哲学者の旅日記」ほか。著書に「哲学の意味」など。

経歴には違いないが、これでは何故彼が心の師として慕ったのかわからない。
もっと具体的な話を語ってもらおう。

岐阜の生家は、祖父が貴族院議員を務めるほどの名家で、子どもの頃は「林さま」と呼ばれるお坊ちゃまだったそうだ。
それが、祖父の事業が破綻して没落。
孤児同然となって、寺に預けられた。
寺では、漢文の素読やお経を読まされた。

そして、明治末年に岐阜師範学校に入学する。
当時、優秀な子がいても、一高とか二高とかのナンバースクールから帝国大学に入れるのはお金がかかった。
孤児同然の林一少年が優秀でも、このルートで帝国大学に入ることはできなかった。
そして、貧しいが優秀な生徒は、だいたい師範学校に行って教師になるというコースを歩むものが多かった。
当時の漢文の先生は、旧藩校出身の年寄りが多かったが、漢文など古臭い学問と、生徒の間では軽視する傾向があった。
あるとき、困らせてやろうと、生徒が寄ってたかって質問攻めにしたことがあった。
ところが先生は、漢字一つ一つについて丁寧に答えておられて、すごいものだと感心した。

そこから、広島の高等師範学校に進学する。
そして、京都帝国大学哲学科に進むが、京都帝国大学は、西田幾多郎を筆頭に、そうそうたる京都学派を形成しており、全国の秀才が西田幾多郎の教えを受けようと集まってきていた。
三高から進学してきた学生にとって、高等師範から来た生徒は虐めの対象だったようで、陰湿な嫌がらせを受けた。

※私見だが、ここまでの経歴を聞くと、林一青年は、権威や肩書というものが、いかに空しいものかわかったのではないかという気がする。

彼はみながあこがれてつこうとした西田幾多郎を師とは仰がなかった。
誰についたかと言うと、パッとしない朝永三十郎という人だった。
朝永先生の所に行くと、「なんでボクの所に来たの?やめたほうがいいよ」と言われた。
そこで、「先生はバカに見えるからです。こういうパッとしない先生こそ本物だと思いました。西田先生は、京大に来る前は勉強したようですが、京大に来てからは格好ばかりで、あまり勉強していない。授業中も天井の節穴をながめて「はぁ」と言うと、学生たちが「ほぉ!」と言っているような授業だから、ついても意味がないと思いました」
と答えた。
この朝永先生、ノーベル賞をもらった物理学者、朝永振一郎の父君だ。

内藤湖南については、「あれはハッタリ屋だ」と一言だけ。

※これはちょっと酷なのではないかと思うのだが、世評が高い先生には批判的だったのかと思う。

国文学者の藤井乙男については、大変貧乏していたが、いい先生だったと評していた。
地味な先生だが、そういう人が好きだったようだ。

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