ここ何年か神社を巡拝しているが、神道というものは面白いものだと思う。
祭神・来歴・氏子から合祀されている神様まで、まったく、よくもこんなにと思うくらいさまざまなのだ。
高校の倫理社会で取り上げた日本思想としての神道のテーマは「清明心」だった。
禊ぎ払いを行って得るもので、塵のない清らかな心。
俗塵を脱するのは神仙思想のようでもあり、仏教で言うなら茗荷の語源にもなったという周利槃特の「塵を払い、垢を除かん」という一事で大悟したという故事と同じようなものかと思うが、神道論を書くつもりではないのでこの話はこのくらいで。
とにかく、神道というもの、神社というもの、或いは、神様というものは多様なんだという事。
その上で書くのだが、神道って布教しているだろうか?
函館のトラピスト修道院で結婚式を挙げたやつがいたが、何日か通わされて、キリスト教に改宗することを勧められたそうだ。
神前結婚をする人は多いが、改宗しろと言われたことはあるだろうか?
こうした機会に改宗を勧めるのは、神道系の新興宗教くらいだろう。
わたしは、神道のこういうところが好きだが、教団、或いは神社を維持するのには障害にもなるのだろう。
明治以後にできた神社は氏子を集められないから公共機関が助けるのは当然のように言う禰宜さんもいるが、果たしてそうだろうか?
ウチの実家の神社も、式内社としてお上から保証されていた扶持を明治維新で取り上げられ、存続の危機を迎えたことがあった。
それを、部落の人たちをまとめて氏子になってもらい、神主も身銭を切って維持して今日に繋げているのだ。
上記の禰宜さんには、「甘ったれないでほしい」と言いたくなる。
友人で、ご両親が地方に土着の方で、古刹の寺院の檀家総代をされていた方がある。
友人は、いまはキリスト教に改宗されている。
何でそうしたのか聞くと、こんな話だった。
確かに墓はそのお寺にあるのだけど、お坊さんは何台も車を持っていて、ゴルフ焼けをしているような方。
豪華な応接室で応対し、どこのお布施は多いの少ないのと言うような、全く尊敬できないような方だったという。
それに対して近所に、布教の為に来た貧しい牧師さんがいた。
一応、自宅兼教会は造ったが、信者は数人で、とても献金だけではやって行けなかった。
しかし、その少ない信者が、野菜を届けてくれたりお米を分けてくれたりして、貧しいけれど生活が出来ていたという。
そんな人に導かれての入信だった。
もう少し書こうか。
若いころ、ある新興宗教の方と話したことがある。
彼は若いときに入信していて、落ち着いた方だった。
その宗教の機関紙があって、若いころ、その機関誌の束を渡されて、お金は持たずに布教すべき地域に派遣されたことがあったという。
全く知らない土地で、もちろんその宗教の信者もいない。
得体の知れない宗教の機関紙など、金を払って買う人などいそうもなかったが、どこかで飯を食い、どこかで寝なければならない。
その日の食事にも寝る場所にも困ってしまった。
でも、助けてくれる人はいたという。
彼がその宗教の信者でなくても助けてくれたのだろうと思うが、彼はその布教によって鍛えられ、信仰がより明白になったという。
いま、世襲で禰宜になった人たちは、そうした修羅場をくぐって生きて来たのだろうか?
寒中に裸で水を被るのと、生きた人間たちを動かすのとはまるで違うと知っているのだろうか?
立派な建物に魅かれて、或いは古くからあるというだけでやってくる信者がいてもいいとは思う。
しかし、大きな神社でないからとか、そんなに古そうではないからということで態度を変えるような信仰はしたくないと思う。
だから、派手な社殿を維持するために神域を切り売りしたり御神木を切り倒すのは間違っていると思う。
実家は神社と地続きで、ウチの敷地に生えている木もあるのだが、いま家を継いでいる弟には、なるべく木を切らないでほしいと言っている。
神社の森厳たる環境は、そうしたみんなの気持ちによって維持されるものだと思う。
そうした気持ちのないところなら、神社は自然に消滅してしまうだろう。
そして、それでいいのだとも思う。
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