区立図書館に神田喜一郎全集が無いので、随筆「墨林閑話」を読む。
最初は書の話。
神田喜一郎は国宝に指定された書も所蔵していた方なので何を持っていても驚かないが、伏見天皇・後伏見天皇の宸翰も持っていたんですね。
尊圓法親王(伏見天皇第六皇子)も含めてこの時代の皇室には能書の方が多かった。
神田自身は後宇多天皇の書が好きだと書いているが、こうした皇族の書がなぜいいかについてこう書いている。
いったい、日本でも中国でも、帝王の書というものは、その巧拙いかんにかかわらず、堂々としていて、すこしも臆したところやけれんが無いのを特色とする。
そして清の乾隆帝の書を、上手く書こうとしてかえって失敗していると批判して、
その点、日本の天皇の書は、まったく素直に出来ている。純真そのものといってよい。その素直なのを、私は好くのである。
そして
特に南北朝の天皇の書が見事に感ぜられるのは、当時の天皇がいずれも当時における最高の知識人であったことによるかと考えられる。
御家流が好きか嫌いかのような好みの問題もあるのだろうが、最高の知識人と言うのは、絶対条件ではないが必要条件であったのかもしれないと思う。
今のような出版事情があったわけではないので、能書を見るためにはそれなりの教養や地位が必要だっただろう。
書写が本の購入に代わるものだったから、教養を磨くためにはたくさんの本を書写する必要があったろう。
定家のようなくせ字を書く教養人もいるが、それでも晩年の明月記は味があった。
「看聞御記」を書いた後崇光院は教養人として知られるが、花園天皇もなかなかの読書家だったらしい。
その読んだ本の中に「礼記子本疏義」があったという。
神田博士はそれを国学院大学教授だった岩橋小弥太の書いた「花園天皇」という伝記で知った。
私が「ん?」と思ったのは「礼記子本疏義」のほう。
読み進んで行ったら、やはり早稲田大学が所蔵する二点の唐代写本の一つだ。
どちらも国宝になっているが、「日本国見在書目録」を見たら、100巻として載っている。
平安時代の図書目録に載っている本が、一巻だけだが、今に伝わっているのだ。
この本については、慶応大学斯道文庫の高橋智さんが書いていたと思うのだが、それが手元にない (ーー;)
だからこの話はここまでにして、次に努力家型の書家として貫名海屋を挙げている。
貫名海屋についてはこれまで何度も書いているので省略するが、神田博士はこの人の書いた「後赤壁賦」が好きだし素晴らしいという。
もっとも海屋のような努力型の人の書には、どうかすると匠気といって、一種の職人的な臭みが現れて、品位を欠く憾があるものである。ところは海屋の書には、高雅な品位こそあれ、匠気などというものは微塵もない。それは海屋が普通の書家とは違って、非常な読書家であったからであろうと思う。
というのだ。
海屋は自分で漢詩なども書いていた人で、上手ではなかったと神田博士は言うが、この時代の日本人の漢文作品は再発掘されている段階なので、余り酷評するのもかわいそうな気がする。
詩社が出来て盛んに漢詩を作ったりする風潮は明治まで続くが、平仄がデタラメで、定型詩とは言い難いものもけっこうあったようだ。
いっそのこと非定型を「日本型漢詩」にしてしまえばよかったのかもしれないと思うが、それを許さぬ教養人もいたようだ。
とにかくこの貫名海屋が76歳の時、蔵書を賀茂神社に寄贈した。
「蓼倉文庫」というのだそうだ。
目録があって、それによると、経史子集合わせて11.252巻、3.386本にのぼるという。
そうした本を集めた教養人であったという事だ。
そろそろ結論を書きたいのだが、何でこんな話を取り上げたかというと、批評語について気になったからだ。
これまで読んできて神田博士の評語をどう思われたろう?
けっこうわかりやすく特色を神田博士なりにとらえて書いているのではないだろうか?
われわれは「瀛奎律髄」という中国の本を取り上げて40年近く読んでいたのだが、その中に中国。清時代の学者の詩評が書いてある。
「朱子語類」のように口語で手におえないというわけではないのだが、ニュアンスが今一つ伝わらないのではないかという問題に悩まされたことがあった。
注はつけても評はつけないようなものが多くて、評語自体が少なかったのではないかという意見も出た。
ただ、作品は読んでいるので、その作品をどのように評価しているのかはなんとなくわかるという事もある。
中国人の評については読み取るべきであり、それを楽しんでいるのだと言えるが、自分が評を欠く場合には、読み取れるように努めなければならないと思う。
そんなことを考えながら、読んでいたという報告だ。
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