土曜日は出かけていて、往復の車中と待ち合わせの時間に本を読んでいた。
読んだのは久保田収の「神道史の研究」から、「石清水八幡宮の崇敬と正直の理」など。
久保田収は東京帝国大学で平泉澄の薫陶を受けた人で、これを出版したころは伊勢の神宮皇学館大学で教鞭をとっていたと思う。
私この人、好きなんだよね。
皇国史観に彩られてと言うのではなく、実証的な文献史学をやっていて、割合読みやすい。
せっかく読んだので、そのメモ。
石清水八幡宮については、ここから勧進されたのが鶴岡八幡宮だし、宇佐を勧進したのだとばかり思っていたら、違う説もあるんですね。
「長徳元年(998)春、権寺主大法師平寿の記した『石清水遷座略縁起』に「抑石清水、素山寺之名也、権現移座男山以降、更以東面之堂、改為南面之堂、護国寺是也」といひ、もともと男山に石清水といふ寺があったことを明らかにしているが、『石清水八幡末社記』に「貞観四年十二月二十三日、太政官符云、応改石清水、号護国寺云々」とて、、貞観四年(862)に、その石清水と言う寺名を改めて、勧請まもなく護国寺と号したといふのである」
護国寺になったあと、承平天慶の乱が起こり、賊平定に功があったという事で、伊勢神宮に次ぐ地位を与えられたという。
『中右記』によると、堀川天皇の長治二年(1105)の非常赦のとき、「触伊勢大神宮八幡訴者、非免限者」として、この神社に関する犯罪者は、伊勢神宮と並んで大赦の対象外にされた。
これが先例となったのか、『中右記』天人元年十月条・『殿暦』天永元年八月条などに、同様の措置が取られたことが載っていて、この時期にはその地位が確定していた。
「石清水文書」「石清水八幡宮神輿出御例」によると、この時期に石清水八幡宮寺別当の光清を大山寺別当に任じようとしたところ、大山寺を延暦寺の末寺と思っていた比叡山から横やりが入り、公卿詮議において「八幡神人訴事、宗廟者鄭重異他。神慮甚難量。只可准勅諚」ということになって白河法皇をして思うようにならぬものと言わしめた叡山側を敗訴させている。
このように、元々護国の社という位置づけはされていたが、それが決定的になるのは元寇だろう。
まぁ、その辺も原典を引いて論じてくれているのだが。
以下は、本家(?)の宇佐八幡宮の八幡神の話。
中世には「正直」が価値観として強調されたという話が続くのだが、日蓮が「法門可申事」で「世間ノ上下万人云、八幡大菩薩ハ正直ノ頂ニヤドリ給別スミカナシ」と書いているのを引用していて、「正直の頭に神宿る」は、このへんから来ているのかと感心した。
日蓮は「神天上法門」を唱えて、天照大神と共に八幡大菩薩を国家主語の大神と位置付けて尊崇しているから、まぁ、これはそうだろう。
宇佐では、八幡神が誉田別命(応神天皇)であるとするのには問題がありそうに思うのだが、また、武神としてふさわしい天皇が応神天皇しかいないという事もないように思うのだが、応神天皇であり、皇室はすべてその子孫であるということで、地位が固まっているようだ。
そして、『八幡愚童訓』が挙げる、八幡神が神威を発揮して外国の侵略から国を守った例として、開化天皇(応神天皇より前じゃん(ーー;))・仲哀天皇・神功皇后・欽明天皇・敏達天皇・推古天皇・天智天皇・桓武天皇・平城天皇と文永・弘安の役の十一回に及ぶという。
そのなかでちょっと面白い話が出てくる。
平城天皇の御世に起こったというのだが、新羅の太子が行徳を積んで、不動の呪によって日本の諸神を縛し、これを水瓶に取り込めた。
金角・銀角の琥珀浄瓶みたいな話だが、このとき、宇佐宮のみが呪力を逃れたため、日本は新羅に服属させられるのを避けられたというのだ。
出典は、『八幡愚童訓』以前にはないようだが、「神道五部書」の如く、宇佐には伝わっていた話ということになるのだろうか?
それから、僧侶の伊勢神宮参拝については前にも書いたが、重源について、具体的に書いてあったので転写。
スキャナーで撮って、貼りつけて置く。

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